・自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
・自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
・都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事する。
・都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
・どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
・自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
・「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
・自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
・自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
安冨さんがこの本で「東大話法」と呼んでいるものの一部(!)です。トランプ大統領の言動にもこの特徴が見られますが、今の国会のやりとり、政府の答弁にもはっきりとこれらの特徴があらわれているようです。(この「話法」の特徴は全部で20項目ありますが、詳細は本をご覧ください)
要は「欺瞞と無責任に支配された思考回路」のことです。このような「思考回路」を持った人たちがどこから生まれたのか、彼らがもたらしたものはなにかを追求したのがこの本です。
その一番いい例が『三丁目の夕日』にまつわるものです。
「もはや戦後ではない」という言葉の流行とともに、「夢と希望に満ちあふれた時代」として思い起こされる『三丁目の夕日』の時代。けれどその時代にはまだ戦争の影が色濃く落とされていたのではないか、安冨さんはこう問いかけます。
──軍人や市民を合わせて日本人だけでも三〇〇万人以上が亡くなった太平洋戦争から「たった一〇年」で「夢と希望に満ちあふれた時代」にコロッと切り替わるなんて、あまりにも調子がいい話だと思わないでしょうか。ところが、人の頭の中では、実際にそうなっています。どう考えても筋がとおらない話ではありますが、いつの間にやら三〇〇万人以上が亡くなった戦争自体の総括もウヤムヤにされて、「夢と希望に満ちあふれた時代」という方向にもっていかれているのです。──
つまりこの幻想(幻影)を生む大本になった「もはや戦後ではない」という“戦後収束宣言”の正体は「官僚の『立場』に沿った典型的な『東大話法』」がもたらしたものなのです。
──この“戦後収束宣言”を反芻(はんすう)することで、多くの日本人は「そうか、もう戦後ではないのだな」と自らにも言い聞かせたものです。つまり、裏を返せばこれは、「戦争はとっくに終わった遠い昔の出来事」にしたい人々の「立場」に沿った「東大話法」なのです。──
さらに問いを続けます、「なぜ彼らは『戦争』の影を消し去ろうと躍起になっていたのだろうか」と……。「それは、学歴エリート(当時の高級官僚)という人々こそが、実は最も『戦争』をひきずっていたから」なのです。
高度経済成長期の「学歴エリート」は戦時中に「高速事務処理能力やバランス感覚」を磨いてきた人たちでした。そのような人たちが「一九四五年八月一五日を境に、まったく別人になれるものでしょうか。なれるわけがありません」。
──事実、この時代の日本はリーダーすらも骨の髄まで「戦争」が染み付いた「学歴エリート」がなっています。もうおわかりでしょう、岸信介です。(略)岸信介を代表とする戦前、戦中の「学歴エリート」たちは、その優れた高速事務処理能力やバランス感覚を「戦争」のために用いました。──
そして戦後、政治家や官僚として復活をとげた学歴エリートは自らの「立場」を守るために、「戦争」という「過去の汚点」を消し去ろうとします。そのために「もはや戦後ではない」という「東大話法」を用いたのです。
ここに重要なキーワードが出てきました。「立場」です。「空気」と並んで日本人の思考を狭め、時に無責任に、また時に抑圧するものに「立場の思考」というものがあります。この「立場」というものは、実はそれに従うものには自分の生き方を肯定してくれる場所」を生み出してくれるのです。
「立場」を重要視する、あるいはそれに束縛される場面は思わぬところにも顔を出しています。安冨さんによれば戦時中「靖国の母」と称揚されたなかにも「立場・立場主義」があらわれているそうです。どういうことでしょうか、
──「銃後の妻」と同じく、戦時中に女性に求められた「立場」がもうひとつあります。それは「靖国の母」です。お国のために立派に死んできなさい……。そのような言葉をかけて気丈に息子を戦地に送り出した母親は立派に「役」を果たしたということで、「立場」が守られました。息子が戦死すると周囲から「靖国の母」と呼ばれて、尊敬を集めました。それを周囲に示すように、戦死した子どもを出した家には、「靖国の家」というプレートが玄関に掲げられたものです。──
戦時中の戦争協力・戦意昂揚等を求めた、当時の「空気」と「立場」が人を追い詰めていくようすがうかがえます。
──お腹を痛めた我が子ならば戦争などに行かずに、人間らしくのびのびと自由に生きて欲しい。そういう人間として当然の母の姿は、戦時中は“あってはならぬもの”とされました。「役立たず」として「立場」を失ってしまうのです。──
「立場」に従い戦時下に有能さを発揮し、このような状況を涵養した「学歴エリート」が戦後日本を唱導してきたのです。そして「学歴エリート」が日本社会にもたらしたもの、それらが「経済戦争」「受験戦争」「交通戦争」と呼ばれたように「戦争」と形容された事象になっているのも言葉のあやだけではないと思います。心の裏側には戦時中の「学歴エリート」そのままの、戦後の「学歴エリート」の指導、振る舞いがあるのではないか、というのがこの本での安冨さんの問いかけです。
これらは今の日本の病理そのものです。そして少しも治癒してないのがこれらからもうかがえます。いまだに日本のエリート(と称している)政治家や官僚には、戦時中の「エリート」の精神構造が引き継がれ、残ったままなのです。
無責任を生む「立場主義」、自分にとって不都合なことは認めない、その典型が大本営発表であることはいうまでもありません。つまり日本はいまもまだ「戦争中」の思考に呪縛されているのではないかということを心に刻み込まされた1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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