──大東亜戦争は、政戦略の失敗を積み重ねた末に、勝算も戦争終結の目算もないままに始めた戦争だった。──
大東亜戦争(太平洋戦争)は負けるべくして負けた戦争といわれています。兵站の軽視、戦力の逐次投入、戦略(政治目的)のない戦術のみの戦闘行為、情報の軽視、自己中心的な戦闘判断、さらに硬直した官僚機構……と失敗の要因は多々あげられています。
この本は無謀な戦争を指導し、おこなった中枢である参謀本部と、そこへ多くの軍人エリートを送り出した陸軍大学校の実態を追うことで敗戦の原因を探ろうとした力作です。
この陸軍大学校は本当に優れた教育をおこなったのでしょうか? 黒野さんは天才と称された石原完爾の陸大時代のエピソードを紹介しています。石原は戦術(!)中心だった陸大の課題を1時間ほどで手早くすまし、“独学”の時間を作っていたそうです。
──残りの時間は入校前から研究していた史学や社会学などの勉強に充当した。そして、その道の大家である学者の門をたたいては研鑽にはげんだ。(略)このような陸大生時代のいわば独学が、その後の思想の素地となっていた。これは逆にいえば、陸大の教育をうけても政戦略的発想は身につかないことを示している。──
日本軍を支えるのは参謀本部、その参謀本部へ送る優秀な人材を育てるのが陸軍大学校でしたが、石原は陸大に落第点を与え、さらには参謀本部のありかたにも疑問を投げかけたのです。
──戦争指導能力のない陸軍中央部ができあがったのは、陸大が適切な教育をしていないからだと痛切に批判した。そして陸大教育について、陸大の教官は指揮官としての経験から戦術教育の方は磨かれていたが、持久戦の基礎知識に乏しく、決戦戦争はできても持久戦争は指揮できないと指摘した。──
この石原完爾を黒野さんはこう高く評価しています。
──日本陸軍の数十年の歴史のなかで、明確な思想にもとづいて、各論は未完成ではあったものの戦争指導計画を作成し、これに必要な軍備充実計画とその裏づけとなる産業計画を体系的に作成したのは石原ただ一人であった。──
石原完爾から根本的な批判(軽侮?)を加えられた陸軍中央部ですが、それは参謀本部も同様でした。では、この参謀本部はどのようにして作られたのでしょうか。
参謀本部を作ったのは山県有朋です。西南戦争、その後の竹橋事件と新政府を脅かす勢いはやみません。これに自由民権運動を加えてもいいと思います。これらの動きに怖れをいだき山県有朋らの政府首脳は「政治と軍事を切り離すために統帥権を独立させる」ことを考え出すにいたりました。当時は“政治の力”が“軍の力”に影響を及ぼすことを怖れたのでした。大正デモクラシー以後の戦前昭和の軍国主義とは逆の事態です。
軍事が政治の下にあるのは当然ですが、権力基盤が弱体だと思った山県たちは、政治と軍事の両者を切り離すことで、自らの権力基盤を安泰にしようと考えたのです。当時の新政府はいまだ確固たる政治基盤を築くことができずにいたのです。そして、山県たちは自らが掌握した軍を政治権力によって奪われることがないようにするために「統帥権の独立」という理念を生み出したのです。
この「統帥権の独立」という理念のもとで作られた組織が参謀本部でした。この組織には初めから危険なものがはらまれていました。
──参謀本部を設置することは、統帥権が政府から離れ、軍事組織が軍令と軍政に二元化することを意味し、政治と軍事が分離する危険をともなう。平時に制定する国防方針にしても、戦時の戦争指導にしても、もっとも重要なのは政略と戦略を一致させることである。参謀本部の設置は、あきらかにこれに逆行していた。──
しかもこの背後には山県個人の権力への野望もありました。
──参謀本部設置の背後にはあきらかに、文官優位の太政官制のなかで武官の地位を高め、自己の権力を確立していくため、まず陸軍を権力掌握の牙城としようとした山県の野望があった。──
文官政府の政治権力から独立して軍を自らの手に掌握し、今でいうシビリアンコントロールを排除しようとしたのです。しかも陸軍を掌握していた山県は、日本陸軍が手本にしていたプロシャ軍政の「陸主海従」という軍思想を盾に、あくまで陸軍中心の軍事体制を作ろうとしました。その結果日本軍の全軍令組織に必要であった統合参謀本部は形だけの骨抜き組織となってしまったのです。
こうして作られた参謀本部に人材を送り込んだ陸軍大学校がどのような教育方針であったのかは前述したとおり「戦術」を中心としたものでした。
──研究内容はもっぱら高等用兵という戦術の研究であり、戦争の形態や様相が激変したことに対応した政略や戦略の研究に関心は向けられなかった。──
組織としてはいちおう学術研究も行うことを目指したものの、まったく十分ではありませんでした。また、「将軍となる人材を養成する」目的で設置された専攻科制度も、学生を指導する教官を得られずに昭和7年に廃止されました。優秀な将校を戦地から離さなかったのです。
──中堅将校から能力と実績により選抜した者を入校させて修士・博士課程に相当する高級教育を施し、その成績を考慮して高級指揮官・参謀に任命する制度を確立すべきであった。この制度がなかったことが、まともな戦争指導構想も立案できないまま大東亜戦争に突入するような指導者ばかりをつくってしまったのである。──
戦争指導能力のないエリートを送り続けた陸軍大学校。実戦優先をかけ声に戦略より戦術(戦闘)を優先した教育、図上演習中心の教育、これは硬直した、時に得手勝手な思考を生むことにもなっていきました。そして戦闘中心志向が生んだ兵站等の無視……。これでは戦争に対する総合的な判断など生まれるはずがありません。
大東亜戦争は負けるべくして負けたということを、この本ほど陸軍の内部から剔抉したものはないと思います。年代ごとに変化していった軍(陸軍、参謀本部等)の組織図も多数掲載され、この組織の変化(劣化?)も良く理解できます。
この陸軍大学校の教育方針の欠陥はもうなくなったのでしょうか? 目先の課題を追う政治家・官僚の姿、現代の彼らの中に自己権力(既得権益)の保持を最優先していた、山県・参謀本部・陸軍大学校のDNAが受け継がれているように思えます。戦争ということだけではありません。この本がから私たちが受け取るのは教育・思想とはなにかという問いかけだと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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