──東条英機内閣大東亜相にして元A級戦犯容疑者の青木一男(一九五三年、参議院議員当選)が、「合祀しないと東京裁判の結果を認めたことになる」と主張して譲らなかった。このことから、東京裁判を否定するためにもA級合祀があったという意味あいがわかる。──
東京裁判と靖国(合祀)問題には切っても切れない関係があるという認識からこの本は始まります。そして東京裁判の結果がもたらした現在日本の姿(位置)を手放さずに、「東京裁判をもっと冷静に考えよう」というのが日暮さんがこの本に込めたメッセージです。
東京裁判とはなにか、という問いにはすぐに「文明の裁き」と「勝者の裁き」というふたつの答えがうかんできます。それぞれ「規範」と「戦勝国の権力」をあらわしています。
──「文明の裁き=規範」の目的とは、国際社会における「法の支配」を見据えて侵略戦争を法的に抑止することである。戦争は「道徳上の悪」であるばかりか「国際法上の犯罪」とされる。(略)「勝者の裁き=権力」の目的は、「戦争責任は日本とドイツにある」と裁判で確定することである。連合国には、こちらのほうが「規範」よりも現実に重要だった。その効用は、まず、連合国の「正当性」である。あの戦争を「日本の侵略と連合国の制裁」とする「歴史解釈」を確定すれば、同時に勝者の「正義」「正当性」もはっきりする。──
前者は東京裁判肯定論に、後者は否定論に繋がります。ともあれ、なにより重要なのは日暮さんが一貫して主張しているように「事実の積み重ね」です。けれどこの「政策事実」「実行事実」を突き止めるには、大きな問題がありました。「日本の各官庁が敗戦時に文書を焼却したため、証拠となるべき書類が予想外に少なかった」のです。
敗戦時に敗戦国が自らの不利益になると考えられる重要書類を焼却することは珍しいことではありません。それには戦争計画、占領指導だけでなく、国内の統制に関するものも含まれていたでしょう。旧指導層に不都合な事実(!)を記したものは焼却を命ぜられました。
ところが、この行動は犯罪を立証する「検察側だけでなく弁護側をも困らせること」になったのです。こんな回想が残っています。
──検事や法廷はこれ[文書焼却]を証拠隠滅とののしったが、われわれ被告にとっても……全部が完全にそろっていたらどんなに便利であったかと、つくづく嘆じた。(佐藤賢了『太平洋戦争回顧録』)──
それだけではありません。書類の焼却は裁判の経緯にも大きな影響をもたらしました。
──情報の中心は文書でなく尋問調書だったため、本来なら公文書一通の提出ですむはずの問題がしばしば冗長な宣誓供述書や証言で立証されなければならず、東京裁判が長期化する要因となったのである。──
そのような状態で進められたのが東京裁判でした。
この裁判の性格のひとつ「文明の裁き」というものを象徴する行為が「被告に反証と自己弁護の機会を与える」ということでした。この反証と弁護こそが「勝者の正義と公平の精神の証明」になるとアメリカは考えたのです。当時、この被告の弁明を認める東京裁判に「はじめて西欧的な法理念に接する思いで新鮮な驚き」を感じた人も少なからずいたそうです。
──GHQは、遅くとも一九四五年十一月にはA級容疑者が独自に弁護人を探すことを非公式に認め、司法省、外務省、陸海軍の諸ルートで日本人弁護士があっせんされた。裁判所の弁護人リストから選ぶルールだったニュルンベルクに比べて、東京の弁護人任命方式は改善されていたわけである。──
しかしながら「言葉の壁」と「英米法知識の欠如」というハンディキャップは埋められませんでした。困難はそれだけではありません。弁護人内部に弁護方針をめぐって大きな対立が生じてきたのです。
〈国家弁護=自衛戦争〉論と〈個人弁護〉論との対立が起きたのです。法理論上の対立、法廷戦術での対立だけではありません。「イデオロギー、派閥、感情、組織的利益などさまざまな争いが複雑にからんでいた」様子がこの本で詳述されています。日本側にどのような背景があったのか、興味深い記述がみられます。混乱の中、日本人弁護士間で罵声が飛び交い対立することもありました。
この〈個人弁護〉とはどのようなものかというと、
1.自分が侵略政策に反対し、戦争回避に努めたという「平和主義」を示すこと。
2.自分には権限がなかったとして上司または他組織の権限を指摘すること。
これでは「被告間の利害が衝突し、しばしば過去の因縁」も絡む事態が生じたというのも当たり前でしょう。その例のひとつとして真珠湾奇襲攻撃をめぐって海軍と外務省が対決した様子が記されています。省益優先の責任の押しつけあいとしか思えない“暴露”、それがそのまま法廷に持ち出されたのです。
〈個人弁護〉派への典型的な批判として『大川周明日記』が引用されています。
「戦争は東條一人で始めたやうな具合になつて了つた。誰も彼も反対したが戦争が始まつたといふのだから、こんな馬鹿げた話はない。日本を代表するA級の連中、実に永久の恥さらしどもだ」
では〈国家弁護〉派は「日本の正当性」「日本の自衛戦争」という主張ができたのでしょうか。日暮さんの論述は細部にまで踏み込んでいるのでじっくり読んでほしいと思いますが、
──〈国家弁護〉派が「孤独な闘い」を続け、やがてアメリカ人弁護士も〈国家弁護〉に近づいていったという従来の説は、かなり修正されなくてはならない。(略)弁護側では、派閥的利益、私怨、体面意識による、どうしようもない内部対立がやまなかった。そして〈国家弁護〉は鵜沢派(鵜沢氏は日本人弁護団長)の国家主義的な議論に矮小化してしまった。〈個人弁護〉派と目された高柳やローガンの最終弁論がむしろ意味ある〈国家弁護〉だったことは皮肉な逆説といえよう。──
混乱した経過を読むと、〈国家弁護〉であれ〈個人弁護〉であれ、そのどちらにも日本側の無罪主張の根底に「責任回避」があったように思えてなりません。
東京裁判は国際政治の影響下にありました。目的とされたのは戦後の国際秩序、安全保障体制の確立です。それゆえこの裁判は国際情勢の変化(冷戦の勃発)によって姿を変えざるをえませんでした。その影響は被告となった26名にではなく、約50名の「それ以外のA級戦犯容疑者」に及んでいったのです。
それがはっきりとあらわれたのが「第二次東京裁判の中止」という事態です。首席検察官のキーナンはA級継続裁判は長期化するので「さらなるA級裁判を起こさない」ようにマッカーサーに提言しました。そしてマッカーサーもまた占領政策を進める上でこれ以上のA級戦犯裁判を行うことは不利と判断したのです。こうして残された戦犯容疑者の釈放が行われました。
東京裁判は、開戦責任、戦時体制を維持させた行政責任、敗戦責任など、それぞれに戦争責任というものが問われるはずでした。しかしこの時、「文明の裁き(=平和に対する罪)」という目的は現実的な要請により退けられたのです。「文明の裁き(=平和に対する罪)」の追求は不徹底なまま終わりを告げました。
その不徹底の上に戦後の日本が建設されました。また不徹底のゆえに東京裁判の否定論が生まれたのかもしれません。残された確たる資料をもとに、東京裁判の背景を含めた経緯を再現したこの本から学ぶことはまだまだ多いのではないでしょうか。功罪ともにこの裁判の意味はまだまだ問われなければならないものだと思います。そう思わせる力作です。
──冷戦期のアメリカは、日本側が多少調子に乗って釈放要求を強めても「西側の結束」という現実的要請から日本の戦争責任追求を停止し、戦犯釈放にも応じた。しかし冷戦後は、そうもいかない。それこそ、われわれ日本人が用心すべき点であろう。東京裁判は国際問題であり、国内問題として完結することはありえないのだから。──
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
note
https://note.mu/nonakayukihiro