日本のある高官の言動にふれて、「アメリカが言いそうなことを先取りして言う日本」という指摘がこの本にあります。確かに日米関係について考えるとおかしなことに気がつきます。「日米間の緊密な関係を維持する」ということに、ほとんどの政治家(国民も)が疑問を持ちません。ですがこれはどこか錯覚(間違い)がはいってはいないでしょうか。
“日米間の緊密な関係”というものは“手段”にしか過ぎません。目的は別にあるはずです。ところが“日米間の緊密な関係”というものが目的になっているのです。これに疑問を抱かない人は「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化」しているということを“常識=常態”化しているのです。と同時に「敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)」ことを行っているのです。これが白井さんのいう「永続敗戦」です。
──敗戦を否認しているがゆえに、際限のない深い対米従属を続けねばならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。──
「敗戦」を否認し歴史を無視する、このような思考・言動はなぜ存在しているのでしょうか。
──そもそも「戦後」とは要するに、敗戦後の日本が敗戦の事実を無意識の彼方へと隠蔽しつつ、戦前の権力構造を相当程度温存したまま、近隣諸国との友好関係を上辺で取り繕いながら「平和と繁栄」を享受してきた時代であった。──
「戦後」はその始めから「戦前」への密通があったのです。なぜ密通というのかといえば、「戦後」はアメリカの圧倒的な支配下にあったにもかかわらず、あるいはそれを利用し、軽軍備・経済優先ということを含めて、戦後の日本の復興を目指したからです。この時アメリカは、日本の存立を保障する存在となりました。日本のアイデンティティはアメリカのもとに置かれました。俗にアメリカがクシャミをすると日本が風邪をひく、という事態の出現であり、その固定化です。
──永続敗戦の構造は、「戦後」の根本レジームとなった。事あるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力が、「戦後を終わらせる」ことを実行しないという言行不一致を犯しながらも長きにわたり権力を独占することができたのは、このレジームが相当の安定性を築き上げることに成功したがゆえであえる。彼らの主観においては、大日本帝国は決して負けておらず(戦争は「終わった」のであって「負けた」のではない)、「神州不敗」の神話は生きている。──
「敗戦」は認めないが「戦後の繁栄」は認める……これがどれほどねじれているか判断ができなくなっているのが現在の政治家・官僚・財界人等の日本のエスタブリッシュメントの姿です。
──「民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべき」とされ「戦前的なるもの」はいったん否定されながらも、「不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させた」と主張することによって、「戦前的なるもの」は部分的にではあれ、肯定されるのである。このように「戦前的なるもの」の肯定と否定は曖昧に共存し、戦後の自民党政治の歴史過程でそれぞれの比重を時により高めたり低めたりしつつ現代に至っているわけである。──
これを一言でいえば「恥知らず」ということでしょうか。
けれど「戦前」への愛着心・固執心がなくなることはありません。それがどれほど危ういものなのかを、政治家・官僚層が理解できているとは思えません。
──かかる「信念」は、究極的には、第二次世界大戦後の米国のよる対日処理を否定し、サンフランシスコ講和条約をも否定することとなる。(もう一度対米開戦せねばならない)。言うまでもなく、彼らはそのような筋の通った「蛮勇」を持ち合わせていない。ゆえに彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスタベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く、それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。──
では最近またぞろ声高になってきた「戦後レジームからの脱却」はこのねじれの解消に向かっているのでしょうか。決してそんなことはありません。なにしろ“日米同盟”を自らの存立基盤としているのですから解消などができるはずはありません。「戦後レジューム」の脱却をいう自民党(安倍政権)そのものがそもそも「戦後レジューム」という「永続敗戦」の上で成り立っているからです。
──戦後日本の親米保守という勢力がはらんでいる根本的な捻じれは、概念的に言えば「保守なるもの」、すなわち「日本固有のもの」が、米国、すなわち「固有のものでないもの」によって支えられているというところにあるが、これをもっと具体的に言えば、「米国的なるもの」が「戦前的なるもの」に対する建前上の否定・断絶を意味しているにもかかわらず、「保守」が意味するのは「戦前的なるもの」との人脈的および価値観における連続性をふくんでおり、両者が曖昧に化合している状態にある。──
同一個体内に異なった遺伝情報を持つ細胞が混じっていることをキメラ(ギリシア神話ではキマイラ)といいますが、現在の日本はまさしくキメラの果てだといえるのではないでしょうか。
日本の現在について白井さんはこう記しています。
──「戦後の精算・超克」に自覚的に向かうのではなく、「戦後の建前」をかなぐり捨てるという方向へと向かっている。その意味で、「戦後」はその地金を露呈させているだけで、真には終わっていない。ここで言う、「戦後の建前」とは、大日本帝国の体制と価値観からは基本的に断絶したものとしての戦後民主主義のルールと価値観の尊重である。つまり、戦後民主主義の世界において、つねに潜在していはいたが公に語ることが不文律によって禁じられ、社会の多数派をとらえることはなかった「大日本帝国の肯定」=「敗戦の否認」の欲望が、大っぴらに表明されるようになったのである。──
「恥知らず」の完成です。この心性に潜んでいるのは自己保存のみです。
──本来「大日本帝国の肯定」を本気で実行するには、大日本帝国をまさに打ち砕いたアメリカに対する敗北を否定しなければならずならないはずである。それは、究極的にはもう一度対米戦を戦い、今度は勝利しなければならないことを意味する。ところが、日本の自称ナショナリストたちのほとんどは、そのようなことを想像すらしない。──
これがどれほどグロテスクなことなのかはいうまでもありません。日米戦などはありえないと答える人たちが多いと思いますが(なにしろ日米同盟が最大の課題なのですから)、実はこれは面従腹背ともよびうる姿勢ではないでしょうか。
自らの歪みに気づくこと、そこから始めなければなりません。アクチュアルでありながら原理的でもあるこの本は、心ある人皆に読んで欲しい1冊です。
ガンジーの次のような言葉が引用されていました。心に滲みる言葉です。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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