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2016.09.23

レビュー

東北を外国人に売り渡して復興? 「経済成長」は誰得か考えてみた

誰もが疑いもなく望んでいる“経済成長”というもの、これが達成できればすべてが解決できる、といわんばかりです。まるで“ジョーカー”のように変幻自在で万能のように思われているようです。

でもこれは確かなのでしょうか。成長を達成するとその“果実”として、貧困や格差の拡大が本当に解決するのでしょうか。あの名ばかりでまったく実現できない“トリクルダウン”、この嘘にまみれたものと同型のものをこの“成長神話”に感じてしまいます。

サターさんはこう問題を立て直します。
──もしかしたら、日本の「本当の」問題はGDP成長率の低さではなく、日本の政策がGDP成長率に固執しすぎているところにあるのではないか。──

日本はなぜ継続的なGDP成長が必要だと思われているのでしょうか。大きく以下のことが上げられています。
1.東日本の復興のため。
2.年金システムの維持のため。
3.日本の国際的地位を保つため。
4.一人当たりGDP(いわゆる「平均所得」)の上昇は、日本人の「生活の質の向上」に貢献するから。
5.生産性向上によってもたらされた経済成長によって、人々の余暇時間が拡大するから。
6.完全雇用の実現のため。
7.一人当たりGDPの上昇によって、社会的格差が是正されるから。

そしてこう続けています、「これらの中には、過去には事実だったが現在は正しいとは言えないものや、もともと正しくないものが含まれている」と。

これらひとつひとつをサターさんは統計データ等を用いて検証し、その背後には盲信や政治的な意図が隠されていることを明らかにしていきます。説得力あふれる論述の詳細は本書を読んでいただきたいのですが、ひとつ紹介しようと思います、サターさんの論述を知ってもらうために。

──「東日本が復興するには、前提条件として経済成長が必要だ」というのは「明らか」でも何でもない。これは復興とは無関係のことを推進するための、まやかしである可能性がある。たとえばこの言葉が載っていた日経ウィークリーの社説では、日本は「環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に参加すべきだという主張が展開されている。TPPとは、参加国間で自由貿易を推進する多面的協定だ。この記事では「自由貿易実現がいままでになく急がれる」とある。なぜなら「復興に必要な投資を呼び込むことが必要」だからだそうだ。この記事を書いた人間は、悲劇をうまく利用して自由貿易を推進したいとしか思えない。なぜなら、かれの言うことを直訳すると「東日本を外国人に売り渡して復興しましょう」としか聞こえないからだ。さらに、売り渡す相手を魅了するために経済成長が必要だと説く。こんなこと、いったい誰が望むのだろう。──

“経済成長”にまつわる言説の背後にある“政治的意志”をえぐった一文だと思います。

では“経済成長”はなぜ至上命題とされるようになったのでしょうか、この本は“経済成長神話”の歴史的背景とその実態を追求した力作です。

“経済成長”をあらわす指標として使われるGDPの分析からこの本は始まります。GDP数値の持っている曖昧さの指摘に続いて、なぜ“成長”ということから私たちが離れられないかについてこう記しています。
──成長に固執するようになってしまった歴史的な理由が、少なくとも3つある。一つはいわば合理的な理由で、経済成長と金融業界のつながりが裏にある。(略)その他二つはいずれも「非合理的」な理由で、どちらも人間の想像力によるものであり、どちらも同じくらい権力者たちの心を掴んできたものだ。一つは冷戦、もうひとつは西洋式のイノベーションに対する信仰である。この、西洋式のイノベーション信仰は、現在アジアをも浸食している。これら二つが合体して、成長に対する神話が形作られた。この点を理解できれば、経済成長の呪縛から逃れることが容易になる。──

冷戦を勝ち抜く(相手より自分たちが優れていると主張する)ために経済成長(それをあらわすGDP成長)が合い言葉となり国力をしめす数値として通用していた時期があったのです。サターさんは、この冷戦の落とし子とでもいうべきだ“経済成長”という概念が、冷戦終結後も生き残り、国力をあらわす指標として使われているにすぎないと辛辣に指摘しています。ここにあるのは自己の政治体制を保証するものとしての“経済成長=GDP成長”というものでした。

では、それは確かな“未来”を保証するものなのでしょうか。

経済成長は少しも私たちの暮らしを楽にするものではない、というのがサターさんが私たちに突きつけたものです。この主張はページを追うごとに説得力を持って迫ってきます。

多岐にわたるサターさんの論述には目を奪われるものがあります。たとえばいつの間にか「交換価値」のみを取り扱うようになった新古典派経済学(新自由主義、市場原理主義)への批判も耳を傾けるべきだと思います。モノ(もちろんサービス)はなぜ生産されるのか。それは私たちがモノに「使用価値」を求めているからです。しかし「功利性」という概念の導入、さらには「限界革命」と呼ばれる論理が経済学に登場するにあたって、「使用価値」は追放され、「交換価値」が残りました。ここにいたって経済学は完全に計量化(数学化)することが可能になりました。その時、人間も経済的合理性・功利性で計られるようになったのです。

けれどこの経済的合理性は市場の合理性(功利性)でしかなく、それこそが格差を生みだすもとになっているのは明らかになっています。そこでは人間も「交換価値」として考えられているようです。むろんGDPも「市場で売り買いされるモノやサービスの価値である。これは交換価値」での指標です。サターさんの指摘はこれは現在の主流派経済学である市場経済至上主義(新自由主義経済)に垣間見られる“脱人間性”への批判でもあるように思えます。

──交換価値というものに「のめりこんだのは、GDPだけではない、それはまさに、現代の金融の根っこでもある。(略)金融によってGDP成長がますます少数の人間に恩恵を与えるようになった事実を見ていく。ここ数十年の間に、経済成長が社会的な不平等を拡大してきた理由がここにある。人間は自分のことだけ考えるので倫理や経済とは関係ないとする新古典主義の考え方を現在の状況に考え合わせれば、いま、社会が向かう彷徨を変えなければ、これから数十年はとても厳しい時代になることは明らかだ。──

成長数値追求の果てにある金融の世界、それは今の私たちが置かれている世界そのものです。金融の世界がいかなるものなのかを分析したサターさんはさらにこう宣言します。
「経済成長の偽ユートピアから抜け出せ」
この本のクライマックスです。サターさんの説得力がいや増しています。この章からの後半はぜひ読んでください。

成長というイデオロギー、盲信のから解き放たれて「減成長」を目指すべきだとサターさんは主張します。そこではどのような経済活動が行われるのか。「生産性から質へ」「操作的ツールから強制的ツールへ」「創造的破壊から耐久性へ」と提言が続きます。(巻末の「減成長による繁栄の実現に向けた最初のステップ」はとても丁寧にまとめられています)

ここには失われた「使用価値」の復権も含まれています。数値化された人間(経済人)から人間性をとりもどすこともあります。さらには日本の課題として、「地方の活性化」等の提言もあります。どれも耳を傾けるのに値するものです。そしてそれらを支えるものとして「民主主義」の必要性が強く主張されています。残念なことに日本に欠けているものとして。

この本は私たちの今を正確に捉えるために、また経済成長は絶対必要だと思い込んでいることから少しは冷静になるために読まれ続けてほしいと思います。

経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望

著 : アンドリュー.J・サター
訳 : 中村 起子

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レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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