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2016.12.19

レビュー

「大和魂」で動く陸軍、動かない海軍──無謀な開戦の責任者は誰か?

ひところいわれた説に“陸軍悪玉、海軍善玉論”というのがありました。
──戦後しばらくの間、アジア・太平洋戦争の悲惨な結末は陸軍の暴走が招いたものであると考えられ、その一方で、合理主義的な海軍が暴走する陸軍に与(くみ)しなかったこと(例えば、海軍が対米開戦や日独伊三国同盟に消極的であったこと)は高く評価されてきた。──

さすがに今ではこのような素朴な論は減ってきたとは思います。確かに戦争を推し進めた大きな一因が陸軍にあったことは間違いありません。多くの首相を輩出し軍事路線・軍国化を推進しました。とはいっても開戦責任のすべてを陸軍に負わせるのは単純化のそしりを免れないのではないかと思います。

──陸軍や海軍の愚かな行為というものを歴史の中に見つけ出し、それを声高に非難するということは実は大変簡単なことだ。だが、陸軍を悪玉とするべく、陸軍の愚行をあげつらったり、そうしたことに反発をして、今度は海軍の愚行をあげつらったりするということは、どちらも、批判することそのものが目的となっていることが多く、そこから思考が深められ、知へと昇華され、それが現代社会にいかされようとすることはめったにない。「悪者」を見つけ出し、その「悪者」に石を投げたところで、なぜそうした「悪者」が生まれるのかを冷静に考察しなければ、進歩へは決して結びつかないのだ。──

この視点から日本海軍の創建から敗戦による消滅まで、海軍がいかに日本の政治と向き合ってきたのかを検証したのがこの本です。

海軍は「軍人は政治に関わらず」を美徳としてきました。政治に対して消極的でした。
──政治に対して消極的であるならば、政治に影響を及ぼすことがないと考えられても仕方がないかもしれない。だが、実際には、海軍は最も重要な政治主体の一つであったのであり、海軍の動向が歴史を左右したことも多かった。(略)政治に対して消極的であったことは、決して政治的になんの役割もはたさなかったということと、イコールにはならない。──

なぜそうなってしまったのか。誤解をおそれずにいえば海軍の合理的精神が、その合理性ゆえに陸軍に代表される戦争方針を止めることができず、その暴走を黙認あるいは追認したと考えられるのです。

海軍が合理的な傾向を持っているというのは、最新文明である軍艦(艦船)を扱っているということからきています。「陸軍が歩兵を主力兵力としていたことから、人を動かすために強い精神主義的傾向を有していたのに対し、海軍は軍艦という巨大な機械を操るため、精神主義よりも、数学や物理学といった合理的傾向を有して」いたのです。

つまり日本精神とか大和魂ということを陸軍では重要視(!)していましたが(といっても前線の兵士の心情がどうであったかはわかりません)、軍艦は大和魂では動きません、ということです。

海軍は基本的に優れた文明の機器を扱うこと、最新式の艦船をそろえることが勝利への前提条件になると考えていました。もちろんそれを操作(乗船)する兵士の力量も考えなければなりませんが、同程度の艦船ならば、保有する艦船の数量が決定的な要因となります。これが軍縮条約で対英米との保有艦数をめぐって海軍を条約派・艦隊派に分裂した要因となりました。

では艦船をそろえるにはどうすればよいか。当たり前ですがなによりも予算の獲得です。海軍の政治への関わりは装備を調えるための予算獲得が第一義でした。日本の国防・海防という大きな国家目的の上にあるものでした。ちなみに当初はロシアを、のちにはアメリカを仮想敵国として戦力の充実をはかっていました。

海軍の政治関与は、海軍にかせられたこの海防という役割を全うするためのものでした。自分たちの責務の範囲を心得(「管掌範囲」)、役割を明確にし、そのために必要なことを政治に求める(たとえば予算として)ということだったのです。海軍の合理的精神の根本にはこの「管掌範囲」というものがあります。この「管掌範囲」を全うするために艦隊派は軍縮条約に反対したのです。単に政府による軍部介入(統帥権干犯)への反対というものではありませんでした。

1941年9月12日に近衛文麿首相から日米戦争の見通しを尋ねられた時の山本五十六のよく知られた返答があります。
──それは是非やれといわれれば初め半歳か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。然ながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。──

手嶋さんはこの対話をこう読み解いています。
──海軍は開戦からごく短期間の軍事作戦までのみを海軍が単独で責任の持てる範囲と認識しており、それ以降の見通しや、その見通しを踏まえて行われる開戦の正式決定は国力全体の問題が入ってくるため、海軍が単独で責任の持つことのできる領域のものとは考えていなかったのだ。──

ところが近衛たちは「海軍が対米戦不可との判断を単独で下すことを求めていた。つまり、海軍以外の政治主体は、決定の責任は海軍にあると判断していた」のです。大きなボタンの掛け違いです。しかも不幸なすれ違いはこれだけではありませんでした。そもそも軍隊に、この戦争が不可であるとか、あるいは敗戦の可能性があるとかをいわせることができるのでしょうか。
──戦争に消極的な姿勢を貫いてしまっていては、海軍には戦争ができないと批判され、予算や物資の割り当ても減らされ、万が一、対米戦になった場合、自己の任務を遂行することができなくなってしまいかねなかった。──

この海軍の姿勢にも「管掌範囲」というものがうかがえます。けれどこの時、「管掌範囲」は自己保身として矮小化されていたのではないでしょうか。

海軍の責務と海軍の組織保全(面子)とが一緒くたになっていたのです。本来の国防責務からいえば開戦の不可をいうべきだったのです。ところが海軍は戦術的な展開力(戦闘能力)を伝えました。海軍にから見ればこの返答は海軍ができることを伝えたのであり、「管掌範囲」というものを踏まえた返答だったのでしょう。さらには将来(?)の国防という「管掌範囲」を全うするために政府の判断に身を委ねたというべきかもしれません。

軍隊は国政の組織です。諸官僚も同じです。そこでは一見正しいように思える「管掌範囲」を踏まえるということが、時には大きな落とし穴、悲惨さを生む元にもなりかねないのです。ましてや政治の延長である軍事を担う海軍省が「非政治的に振る舞う」ということには無理なことだったのではないでしょうか。確かに一方で統帥権があり、また他方で政治に介入した陸軍の姿を見て「軍人は政治に関わらず」ということを尊重したのかもしれません。けれどそれはあくまで海軍の主観であって、客観的には陸軍の「非合理的なもの」を「合理的に修正した」だけであって、陸軍を中心とする開戦勢力に追従することになったのです。

この本は優れた日本海軍史・海軍組織論であると同時に、「管掌範囲」というものが組織の言い訳と責任逃れに使われ、時の政治勢力に追従してしまうという組織の欠陥を明らかにしたものです。さらには(軍事に代表される)専門家集団が陥りやすい欠点をも明らかにしています。いろいろな読み方ができる快著です。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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