「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」
物理学者アインシュタインが精神分析の創始者フロイトにあてた手紙(公開往復書簡)がこの本です。なぜアインシュタインはフロイトと意見を交わしたかったのでしょうか。
アインシュタインは戦争をこう捉えていました。
──人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が! 破壊への衝動は通常のときには心の奥深くに眠っています。特別な事件が起きたときにだけ、表に顔を出すのです。とはいえ、この衝動を呼び覚ますのはそれほど難しくはないと思われます。これこそ、戦争にまつわる複雑な問題の根底に潜む問題です。この問題が重要なのです。人間の衝動に精通している専門家の手を借り、問題を解き明かさねばならないのです。──
人間に潜む本能的な欲求が憎悪を生み、争い、戦争を引き起こすのではないか。ですから心の探究者であるフロイトに問いかけたのです。
──人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?──
この書簡が交わされた1932年といえばフロイトは76歳、ナチスによるユダヤ人迫害が激しくなっていました。フロイトは1938年にイギリスへ亡命します。一方アインシュタインは53歳、すでにドイツを離れ、ベルギー、イギリスを経てアメリカへ亡命します。
心(人間の衝動)を生涯問い続けたフロイトの答えは決して楽観的なものではありません。
人間の心にある2つの傾向、「エロス的欲動」と「死の欲動」を見据えてフロイトはこう答えます。
──破壊欲動はどのような生物の中にも働いており、生命を崩壊させ、生命のない物質に引き戻そうとします。エロス的欲動が「生への欲動」をあらわすのなら、破壊欲動は「死の欲動」と呼ぶことができます。「死の欲動」が外の対象に向けられると、「破壊欲動」になるのです。──
この2つの欲動は決して「善」と「悪」というようなものではありません。「どちらの欲動も人間にはなくてはならないもの」なのですから。
──どちらの欲動にしても、ある程度はもう一方の欲動と結びついている(混ぜ合わされている)ものなのです。一方の欲動の矛先がもう一方の欲動によって、ある程度変わってしまうこともあります。それどころか、一方の欲動が満たされるには、もう一方の欲動が必要不可欠な時すらあるのです。──
破壊欲動とエロス的欲動が結びつくことがあるのです。
──理想への欲動やエロス的なものへの欲動が結びつけば、当然破壊欲動を満たしやすくなります。(略)理想や理念を求めるという動機が意識の全面に出ているのは間違いないが、破壊欲動が無意識のレベルに依存し、それが理念的な動機を後押ししているのだ。──
フロイトはひとまずこう結論づけます。
「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」
ですから「人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよいのです」と。ここで再びエロス的欲動が取り上げられます。「人間がすぐに戦火を交えてしまうのが破壊欲動のなせる業だとしたら、その反対の欲動、つまりエロスを呼び覚ませばよいことになります。だから、人と人の間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻むはず」なのではないかと。
──私たちが戦争に憤りを覚えるのはなぜか。私の考えるところでは、心と体が反対せざるを得ないからです。私たち平和主義者は体と心の奥底から戦争への憤りを覚えるのです──
この戦争に反対し憤りを感じる「心と体」は「文化」がもたらせたものです。このフロイトの論述には激しい思いが込められています。
──心理学的な側面から眺めてみた場合、文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは、知性を強めること。力が増した知性は欲動をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。好都合な面も危険な面も含め、攻撃欲動が内に向かっていくのです。文化の発展が人間に押しつけたこうした心のあり方──これほど、戦争というものと対立するものはほかにありません。だからこそ、私たちは戦争に憤りを覚え、戦争に我慢がならないのではないでしょうか。──
戦争への拒絶は、「単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否」ではありません。「体と心の奥底」からわき上がってくる人間の文化的存在そのものから発するものなのだとフロイトは結論づけています。ですからフロイトはこう未来へ望みを託します。
──文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!──
文化的であろうとすることでしか戦争を終わらせることはできない。ナショナリズムに象徴されるような感情的で反知性であっては決して戦争は終わらせることはできません。反知性と感情優位がもたらすものは、心地よい言葉や目標を掲げて(エロス的欲動!)、他者を排除する「破壊欲動」です。それは自己(権力)中心主義というものに過ぎません。
文化の持続を目指すにはなにより言論・表現の自由が不可欠です。フロイト、アインシュタインを亡命へと追い詰めたナチスは言論・表現の自由を認めず、反知性と感情優位の政権でした。それを目の当たりにしたアインシュタインはこう記しています。
──私の経験に照らしてみると、「教養のない人」よりも「知識人」と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。「知識人」こそ大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか? 彼らは現実を、生の現実を、自分の目と耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです──。
「現実(=リアル)」を見失った、彼のいう「知識人」には現代でいえば、メディアも含まれています。自分に都合のよいものしか「現実」と認めないメディア、言論人には文化を生む批判精神が欠如しています。フロイトによればそれは戦争を容認することに繋がるのです。
平和への努力にあらがうものがあります。それはアインシュタインによれば「権力欲」、そしてこの「権力欲を後押しするグループ」なのだと。
──金銭的な利益を追求し、その活動を押し進めるために、権力にすり寄るグループです。(略)彼らは、戦争を自分たちに都合のよいチャンスとしか見ません。個人的な利益を増大させ、自分の力を増大させる絶好機としか見ないのです。社会的な配慮に欠け、どんなものを前にしても平然と自分の利益を追求しようとします。──
社会的な不平等を一顧だにすることなく猛進する(権力)行動こそが反文化的であり、戦争という破壊欲動を野放しにするものなのです。では、私たちは本当に「文化」の中に生き、その発展(非戦)を願っているのでしょうか……。今の自分たちを省みさせるアクチュアルで素晴らしい1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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