「シン・ゴジラ」が大ヒットしています。その中でゴジラの防衛出動の仕方がネット上で話題になりました。石破茂さんも自身のブログにこう書いています。
──「シン・ゴジラ」も映画館で観る機会があったのですが、何故ゴジラの襲来に対して自衛隊に防衛出動が下令されるのか、どうにも理解が出来ませんでした。いくらゴジラが圧倒的な破壊力を有していても、あくまで天変地異的な現象なのであって、「国または国に準ずる組織による我が国に対する急迫不正の武力攻撃」ではないのですから、害獣駆除として災害派遣で対処するのが法的には妥当なはずなのですが、「災害派遣では武器の使用も武力の行使も出来ない」というのが主な反論の論拠のようです。「警察力をもってしては対応困難な場合」に適用される「治安出動」ではどうなのか、という論点もありそうです。──
どのような破壊が行われてもゴジラとの闘いは戦闘(=国または国に準ずる組織による我が国に対する急迫不正の武力攻撃)ではありません。まして戦争ではありません。
よく知られているように「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」とはクラウゼヴィッツの戦争についての定義です。この「政治」とはなんのことでしょうか。国家間の覇権(権力闘争)、国家の生存を賭けた行動全般……とまずはいえると思います。
でも重要なことは「政治」は“日常”のうえに覆い被さっているということではないでしょうか。ですから「天変地異的な現象」と見なされるシン・ゴジラで戦争を語ることは(もちろんフィクションですが)間違いです。
これと同じような間違いが“徴兵制”で語られました。それは、現代戦ではテクノロジーが高度化されて専門知識が必要とされているので“徴兵制”はありえない、という論理でした。これも戦争を政治の延長として捉えていない間違いがあります。兵器の進化は戦闘方法の変革や戦闘従事者の意識(戦意を含む)を変化させることはあります。ブッシュ(&ブレア&小泉……)の戦争でも、既にハイテク兵器が使われ“ゲームのような戦闘”ともいわれました。ここには“戦争”を矮小化した“戦闘観”があるだけです。
戦争が政治の延長であるとは、戦争は災害のような非日常としてやってくるものではないことをいっているのだと思います。そして、この本は戦争が日常であるということが人々にとってどういうことなのかを語っているように思えるのです。
──先日、小学生から、「戦争をなくすなら世の中をリセットしちゃえば早いよね」。そんな言葉を聞きました。とてもまじめな顔で私に問いかける姿に、「最近の若者はゲームばかりしているから、こんな発想になっちゃうんだ」と短絡的な言葉でばっさり切りすてる気持ちにはなりませんでした。リセットできれば楽だけどできないのが現実です。──
戦争を非日常と考えているから“リセット”などという言葉が浮かぶのでしょう。戦争はリセット云々ですむものではありません。戦争はゲームではありません。「一度動き出した戦争の歯車は、簡単には止められ」ないのです。
この本の中に、誘拐され戦闘訓練をされ、ゲリラ兵器と化したかのような少年の話が収められています。戦場で家族と離ればなれなった少年(難民)の話があります。地雷で大けがをした少年の話があります。どんなにハイテク化されようとも、戦場と化した場所ではこのようなことは、文字通り“日常茶飯”の出来事となるのです。
──兵士たちは、悪い敵をやっつけ、イラクやアフガニスタンを安全な国にすることで、世界全体が平和になると教えられました。ところが、何年たってもイラクやアフガニスタンは安全にならず、現地の人々からも、感謝されるどころか憎しみの目で見られるようになってしまいました。兵士たちの信じていた正義が足元からゆらぎはじめているのです。──
為政者は自分が行う政治はいつでも正しいと主張します。その政治の延長で行われる戦争はいつも正義の御旗や自衛の主張のもとで行われます。その正義がどのようなものなのかは為政者の言葉だけで判断できません。
山本さんが訪れたレバノン、コソボ、ウガンダ、アルジェリア、イラク、アフガニスタン、チェチェン等国々、そこで人々が語り、宣言し、扇動したのは大義であり正義でした。あいいれないその“正義の名”の元で行われた結果がこの本のすべてです。
──この瞬間にもまたひとつ、またふたつ……大切な命がうばわれているかもしれない。──
死、負傷、心神喪失、PTSD……どのような大義名分があろうと戦争がもたらした結果がこれらです。
──ちがっていることは壁でも障害でもありません。人間はひとりひとりちがっているからこそ、豊かな関係を築いていけるのです。だれもがちがいを学び、相手の気持ちを考え、他人を理解しようと努めることで、おたがいの価値観のちがいを乗り越えることができるのではないでしょうか。──
このことがどれほど難しいことなのか、それは戦争を生きた(生かされた)人にしか分からないことかもしれません。
山本さんはこの本の出版した1年後の2012年にシリアでの取材中、政府軍の銃撃により殺害されました。そしてそれから4年が立ちました。世界はどうなったのでしょう……。
1枚1枚の写真から山本さんの思いが強く伝わってきます。けれど、山本さんがこの本に込めた平和への思いは、いまだに実現していません。それどころか、危機を煽る声、正義を叫ぶ声ばかりが目立つようになりました。それが他者を排除することにつながることになるのを気づかずに。
本に誠実さが込められるとしたら、この本はその最良の例だと思います。この本にはどのような賛辞もいりません。ただ開いて欲しいと思うだけです。
山本さんが殺害された地、シリアのアレッポは、最近では“救急車の少年”の映像で話題になりました。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。
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