久住亘(くずみ・わたる)は、岐阜県出身の大学3年生。4歳の頃、友人宅のベランダからレンガを投げ落としたことで悪評が広がって友達が激減しました。レンガ落としに悪意はなかったのですが誤解は解かれず、田舎町だったことも不利に働いたようです。
苦い思い出を呼び覚ます故郷に、しかし亘は教育実習生として帰ってきます。といっても「大学進学の条件として、教員資格を取るよう母親に言い渡されている」からしぶしぶ帰ってきただけで、教員になるつもりなどさらさらありません。大学卒業後は東京に残りたいと考えています。
『路地裏のほたる食堂』というタイトルが、どうしてもグルメ小説のイメージを先行させますが、どちらかといえば本書は、青春ドラマ的です。
亘の幼馴染みで、同じ教育実習生の室中結衣(むろなか・ゆい)との再会。複雑な家庭事情を抱えた美男子の高校生、鈴井遙太(すずい・はるた)との奇妙な出会い。それらを描きつつ、亘の過去がそうであるように、本作ではイジメなどの社会問題も複数取り扱っています。
それでいて、不思議と暗い印象には陥っていません。
冷めているようで、意外と情に厚い亘の性格や、室中結衣の超天然変人具合がこの小説に暖色を加えています。作品の雰囲気自体、ほのぼのとした笑いがベースです。
「取っ手に紐を通した炊飯器」を肩からぶらさげている「炊飯器王子」──という鈴井の設定も、コメディ要素が強いからこそできることでしょう。
加えて、著者の大沼紀子(おおぬま・のりこ)さんが岐阜県出身だからだと思いますが、亘も結衣も岐阜弁で会話します。それが作風の柔らかさの一助にもなっている。変人の結衣に至っては、岐阜弁で喋るからこそ、その超天然っぷりが純朴さを強調して、かえって可愛らしいくらいです。
こうした社会派青春コメディとしての描写だけでも、小説としては充分成立しているのですが、そこに「猫缶事件」なんてものまで絡んでくる。
──猫は、金属製の箱に詰められて、裁判所や病院の待合室、図書館の駐車場等に、ひっそり置かれていたらしい。だから町の人々は、発見された猫たちを、戸惑いを込めて「猫缶」と呼んでいるんだとか。故に、事件の俗称は、連続猫缶放置事件──
亘たちは、その猫缶事件の犯人捜しに乗り出します。そこでようやく「ほたる食堂」と、店主の神宗吾(じん・そうご)が本格的に登場。
──店主はがっしりとした体躯の男だった。(略)屋台と同じく、彼は黒っぽい作務衣を着ていた。腰には白いエプロン。ただし髪は長髪で、後ろでひとつに結わえていて、そんなあたりがそこはかとなく、彼にちょっと只者ではない風格を与えていた──
ほたる食堂は、店主の神が「俺が作れるものを、気分次第で作る屋さん」。メニューはカレーだけだったり、餃子だけだったり、その日によって違います。それだけでもちょっと普通ではないのに、さらに変わっているのは、子供には無料で食べさせる代わりに、「あんたの秘密をひとつ貰う」システムがあること。
亘と結衣は、この奇妙な屋台で猫缶を発見します。それがきっかけで店主の神とも親しくなり、やがて猫缶事件の真相へと辿り着くのですが、それで物語に幕が下りるのかというと、実はそうではありません。
著者が周到に張り巡らせていた伏線によって、最後の最後で思いもよらない展開へ。詳細は秘密ですが、おそらく「続き」があるのでしょう。
だとすれば、亘と結衣の関係が今後どうなるのか気になります。次回作があるとして、ふたりが登場する保証はどこにもないものの、出てきてほしいというのが僕のたっての希望です。
謎めいた神の過去。美形の「炊飯器王子」こと鈴井少年にしても、このままフェードアウトするとは、とても思えない。
美味しい料理を注文してから来るまでの時間は、たいていもどかしいものです。しかし、そこは料理人がしっかりと作り込んでいるのですから、我慢して待たなければなりません。大沼さんが次にどんな料理を出してくれるのか。きっと美味しいに違いないのですが、それだけに、僕はお腹を空かせて待つことにします。
レビュアー
1983年夏生まれ。小説家志望。レビュアー。ブログでもときどき書評など書いています。現在、文筆の活動範囲を広げようかと思案中。テレビ観戦がメインですが、サッカーが好き。愛するクラブはマンチェスター・ユナイテッド。