「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南州だ。西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ」
「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」
前者は勝海舟の、後者は坂本龍馬の西郷隆盛評です。どちらも勝海舟の『氷川清話』に収められています。
明治維新最大の功労者といえば誰よりもまず西郷隆盛の名が挙がると思います。幕末の開明君主・島津斉彬の薫陶を受け活躍した西郷は長く日本人の敬愛・尊敬を受けてきました。矯激な長州藩の尊皇攘夷論とは一線をかくした考えを持っていた西郷は、戊辰戦争では江戸の無欠開城をはじめ上野戦争の主力として活躍、さらに東北へと転戦しました。そして維新後は征韓論、不平士族の最後の反乱といわれる西南戦争の中心人物として語りつがれています。
西南戦争で自決、その没後1898年、上野公園に銅像が建てられました。銅像の作者は高村光雲(高村光太郎の父)でしたが、除幕式でその銅像をみた西郷未亡人が「ウチの人はこんな人ではない」というようなことをいったと伝わっています。そもそも銅像の原画にしたものはお雇い外国人キヨッソーネ筆になる肖像画ですが、その肖像画は西郷が写真嫌いだったため、弟(西郷従道)といとこ(大山巌)をモデルにして描かれたものでした。
この銅像のエピソードが問わず語りに象徴しているように、西郷隆盛には虚像とでもいっていいようなものがまとわりついているのではないか、これがこの本を書いた坂野さんの出発点にあったと思います。
西郷にまつわるイメージというと、幕末の合従連衡を生き抜いたマキャベリストともいえるタフな活動家、征韓論に代表される武断派、士族の尊敬を集めた“ラストサムライ”、子孫に美田を残さずということに象徴される東洋的な大人・聖人君子……といったあたりが代表的なものだと思います。
これらのイメージに坂野さんが対峙した西郷像は「革命家」というものです。
西郷はなにを目指したのでしょうか。もちろんそれは封建制を脱却して「近代的統一国家」を作ることです。江戸時代とはなによりも「極端な格差社会だった上に、無数の格差間の流動性がまったくない、とんでもない社会」でした。この閉塞した社会を変革し新たな社会を構想したのが西郷でした。
島津斉彬の薫陶を受けた西郷は吉田松陰流の攘夷というものを唱えたわけではありません。西洋の技術思想の深さ、重要性を認識していた西郷は攘夷思想の持っている狭さ、危うさをよく感じていました。
──西郷の主張は明確であり、また一貫していた。「合従連衡」、すなわち朝廷と幕府と有力大名とその有力家臣による挙国一致体制の樹立であり、その最大の障害となる「開国」・「攘夷」の対立を封印することが、西郷の一貫した主張だったのである。──
開国により富国化をはかるべきだという、攘夷派とは反対の志向を持っていたのです。それどころか、さらに進んで「現在の大君政府の代わりに国民議会を成立すべき」という論までを持っていたことをこの本は明らかにしています。これは1864年のことだったそうです。(ちなみに明治元年は1868年です)
精神論に走ったともいえる長州藩の過激攘夷派と異なり、西郷はある種の合理的な思考を持っていました。これにも開明君主、斉彬の影響があったのかもしれません。
実は西郷は福沢諭吉を高く評価していました。
──「封建制度」、「門閥制度」を「親の敵」と呼んだのは福沢諭吉であるが、実際に幕府を倒し(戊辰戦争)、封建制を廃した(廃藩置県)最大の功労者は、西郷隆盛であった。「議会制」の導入と封建制の打破とに尽力した西郷隆盛の実像は、「右翼陣営」からも「左翼陣営」からも、まったく忘れられてきたのである。──
けれど西郷の「議会」構想は実現しませんでした。行き詰まるような江戸幕府(徳川慶喜)と雄藩との駆け引きのなかで、「徳川藩をとるか、長州藩をとるか」の選択に西郷も迫られ、実現することができなかったのです。このあたりの政争はこの本にじっくりと描かれています。西郷の苦衷と出処進退がうかがわれ、“義”を重んじる姿と合理的精神との相克のドラマとしても読み応えがあります。
──一八六四年に薩摩藩の有力指導者として返り咲いて以後は、一見したところでは西郷の連戦連勝のように思える。しかし、一八六七年旧暦六月の「薩土盟約」で上下二院制を確約しておきながら、翌六八年には軍事力による倒幕に突き進んだことは、やはり一勝一敗のように思われる。珍しくこの時には、構想の方で敗北し、実践の方で勝利したのである。──
維新を戦い抜いた革命家・西郷隆盛が目指した統一国家・日本はどのようになっていったのでしょうか。
──西郷は大枠においては、欧米文明も立憲政治も理解していた。かれは佐久間象山を尊敬し、勝海舟に圧倒され、アーネスト・サトウに「国民国家」の必要を説き、欧米列強に伍するための統一国家を樹立した(「廃藩置県」)。しかし、一八七一年に樹立された統一国家をどう運営するのかについては、基本的な知識も必要な経験もなかった。一八五八年から七一年にいたる一三年間の彼の経験は、囚人と革命運動と革命戦争に限られていたのである。──
ここに維新後の西郷の悲劇の根があったのです。卓抜した経綸、指導力、人間的魅力にあふれていたにもかかわらず、これが西郷の限界なのでしょうか。残念なことに西郷には国家樹立後の統治をどのように具体的に運営するかというようことを描くことは難しかったのです。
──藩主斉彬の命により一橋慶喜擁立のために有力諸藩の藩主と家臣の「合従連衡」につとめて以来、五年にわたる孤島での囚人生活の間にも、「王政復古」への西郷の信念が変わることはなかった。その手段は、幕政の改革から二院制議会へ、さらには薩長土三藩の横断的結合へと、少しずつ変化していった。しかし、その底流にあった「尊王」とは、最終的には、天皇と国民の間に介在する幕府や藩の廃止による、中央集権的な日本国家の樹立までに発展していくものだったのである。──
曲がりなりにも廃藩置県で成立した中央集権国家・日本。そこには西郷の願いが込められていました。なにより廃藩置県は西郷が掌握した軍事力があったからこそ可能だったのです。革命家・西郷は官僚派の大久保をはじめとする官僚派に比べ、はるかに軍事力の重要性を認識していました。のちに征韓論に破れ下野した西郷が官位を返上しましたが、陸軍大将の地位は保持していました。それは西郷が軍事力の重要性を知っているがゆえに、それを掌握し、暴走させないためだったのかもしれません。けれど内乱(西南戦争)を避けることはできませんでした。
ゲバラではありませんが、革命家は統治者(政治家)にはなれないのかもしれません。確かに西郷には「統治経験」はなかったかもしれませんがそれを越える経綸・構想力はあったと思えるのです。では最後に西郷を死に追いやったものはなにか、それは長州を救うために彼が選びとった“義”と同じものだったような気がします。
さまざざまな虚像を斥け“西郷隆盛の真実”にせまったこの評伝は名著『明治維新 1858-1881』(坂野潤治さん、大野健一さんの共著です)と一味異なった明治維新史であり、維新人物論としても優れたものです。坂野さんの西郷隆盛への尊敬と愛情の思いが読むものに強く伝わってきます。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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