まずなにより博覧強記のお二人に今さらながら驚かされます。そのお二人の対談ですからここから教わることが実に多いです。たとえば幕末、倒幕維新のスローガンとなった〝尊皇攘夷〟についても……。
──中国の春秋時代に出来たことばなのです。五覇の最初の人である斉の桓公が言い出したのです。桓公の時代、中国では蛮夷の国である楚が強勢となって、中国のわずらいとなったのです。そこで、桓公はこのことばを標語にして、諸侯の会議を催し、諸侯とともに周王朝に忠誠を盟(ちか)ったのです。(略)この方法が後世に伝承されて外国の脅威のある時には、出て来るのです。──(海音寺潮五郎「天皇制とはなにか」より)
この輸入の観念を利用して「時勢回転の巨大なテコ」(司馬遼太郎)にしたのが木戸孝允らのリーダーたちで、倒幕後は開国論となり「共和制」を考えたりしました。この木戸、大久保利通らは「尊皇というのは別に思想でなくて、マキャベリズムということもおかしいですが、一つの富国強兵のための術」(司馬)としたのであって、天皇信者は二流の志士とまで断じています。
──明治維新の三傑といわれている人、あるいは三傑に近い一流の連中は、天皇信者じゃないですね。それで天皇信者の大部分は維新以後に、いろいろな乱を起こしたりして死んでいますね。天皇信者の中で、一流の連中にずっとくっついていたために、出世した連中がいますね。伊藤博文とか、山県有朋とか、田中光顕とかいう連中ですね。この連中は一流の連中が術として言ったことを、ことば通りに信じたのですね。伊藤はいささか毛色を異にしますが、山県や田中などは天皇に対する忠誠心さえあれば、他は少々間違ってもかまわないというようなところがありますね。──(海音寺潮五郎「イデオロギーと術」より)
大帝と呼ばれた明治天皇、西園寺公望の助言を守り立憲君主たろうとした昭和天皇の孤独がうかがえるような言葉に思えてきます。
このように、「封建の土壌」「イデオロギーと術」「天皇制とは何か」「産業革命と危機意識」「西郷と大久保」「日本人の意識の底」「幕末のエネルギー」「言語感覚の特異性」と題された八つの章のあちらこちらから私たちの先入観をただしてくれる知見が聞こえてきます。
「一体、仏教や儒教の渡来する以前の日本に誇るに足る精神や道徳と言えるほどのものがあったかどうか」(海音寺)という唯我独尊風な国学を排し、また時折、日本史でいわれる源平交代史観が根拠のないものであるかなどを指摘する歴史、歴史観の見直しだけではありません。歴史への深い思い、探究心に裏打ちされた日本人の本質論にも教わることが多いと思います。
──同じ東アジアでも中国や朝鮮人は思想が習俗化し、人間および人間社会の骨髄にまで思想が入りこんでしまうという民族ですが、日本人はケロリと変わってしまう民族だということです。大きな政治的社会的なあたえられると、きのうまでの権威を平気で捨てて今日からの権威に乗り換える。この凄味は、よろこんでいいのか、悲しんでいいのか、それはいずれであるにせよ日本人のエネルギーになっていることは確かです。──(司馬遼太郎「日本人の意識の底」より)
「勾配がはやすぎる」(海音寺)という日本人は、少しは変わったのでしょうか。この対談が行われてから40年余になりますが、この本で語られたことは少しも古びていません。歴史を〝師〟としてきた二人だから見通せることなのだと思います。
海音寺さんは歴史についてあるところでこのようなことを書いていました。
──昔、歴史は文学であった。そしてあらゆる学問の母であった。経済学も、社会学も、政治学も、倫理学も、──哲学すら、歴史の中にあった。歴史はこれらのさまざまなものをふくんで洋洋と流れる大河であった。社会の発展と学問の進歩によって、分化が行われたのは必然の結果であり、いたし方のないことではあるが、ぼくには古代の素朴な歴史書がなつかしい。(略)学問としての史学は別として、歴史が一般の人に結縁(けちえん)し、人生の知恵になるのは、こういう史書によるとも、ぼくは思っている。ぼくが好んで史書を書き、史伝を書く理由の一つはここにある。──(『武将列伝』あとがき)
この史伝の代表としてあげられているのが司馬遷の『史記」です。ここにも二人の共通点がありました。たしか司馬遼太郎さんのペンネームの由来は司馬遷に遼(はる)か及ばずから来ていたとどこかで読んだ気がします。
この史伝、かつては数多くの作品が生まれた大きなジャンルでした。少し考えれば森鴎外をはじめ山路愛山、徳富蘇峰、福岡日南、幸田露伴らが優れた作品を残していることに気づかされます。
──史伝では、人物の四捨五入はしない。史伝の世界は現実世界の引きうつしである。現実世界に生きて行ける人間が描かれなければならない。人間は四捨五入の出来る部分で特色があらわれ、出来ない部分で生きているのである。──(『武将列伝』あとがき)
時代小説、歴史小説という作品とも違う史伝は日本文学の大きな幹でした(過去形ではないかもしれませんが)。それを懐かしむことではなく優れた史伝が書き続けられほしいということも思わせた、実りの多い対談だと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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