少し前の9月21日アメリカ・ニューヨークで安倍首相は、金融関係者らを前に講演し、日本の高齢化や人口減少についてこう発言しました。
──重荷ではなくボーナスだ。(略)日本は高齢化しているかもしれません。人口が減少しているかもしれません。しかし、この現状が我々に改革のインセンティブを与えます。日本の人口動態は、逆説的ですが、重荷ではなくボーナスなのです。──
金融関係者を前にしての講演で、日本への投資を呼び込むためのリップサービス的なものもあるかもしれませんが、それでも“超高齢化社会日本”の認識が甘いように思えます。さらに「日本はこの3年で生産年齢人口が300万人減少したが、名目GDPは成長した」だから、「日本の人口動態にまったく懸念を持っていない」ということを聞くと、なおさらその感を強くします。
超高齢者一般というようなものはどこにも存在しません。個々の私でありあなたである人間として存在しています。ましてや「ボーナス」と呼ばれるような機能として存在しているわけではありません。
この本の優れているところは豊富なデータに基づいていながら、高齢者一般として語ることがなく、どこまでも個人の人生といった視点を手放すことなく超高齢社会の問題を論じていることにあります。
鈴木さんによると「日本特有の『超高齢化社会』の輪郭が明確となるのは2030年頃」だそうですが、その時には高齢者は3600万人を越え、全人口の30%以上が高齢者という社会が出現することになります。
──今後の高齢者人口の増加は、わが国で均一に生じるのでなく、大きな地域差が存在する。すなわち東京を中心とする首都圏や大阪といった大都市圏で、より大幅に高齢者人口が増加する。──
全国平均では35%の増加が想定されている高齢者人口増加が大都市圏では60%以上(最大の増加は埼玉県の80%)となるそうです。当然、大都市特有の高齢者問題が顕在化してくるとして、鈴木さんはこう警鐘を鳴らしています。
──なによりも「住まい」、あるいは「居住形態」の問題である。大都市特有の団地の超高齢化や独居高齢者の急増とそれにともなう閉じこもりや孤独死の増加が懸念される。さらに高齢者、とくに虚弱の進行した後期高齢者への支援や介護サービス量の大幅な増加にたいする有効な対応策を生み出して行かなければならない。──
地方に目を転じると、
──地方では高齢化率は今後もほとんど増加しない。というよりも、すでに地方では過疎化が極限まで進行し、コミュニティが成り立たなくなっている地域も少なくない。すなわち、こんにちの地方の農山村では若者の流出とあいまって高齢化が進み、六十五歳以上の高齢者が半数を超える「限界集落」となって、さらに人口は減少する。──
この地方にみられる「限界集落化」が、実は未来の大都市の姿なのです。
──「限界集落」では一般に活発な産業の育成や発展は困難となり、生活の潤滑油である金の流れは滞ることになる。いわば「ヒト、モノ、カネ」の空洞化が、コミュニティそのものを危うくしている。じつは、このような地方での過疎化は、今後大都市においても進行する可能性が大きい。──
とても「ボーナス」などといっていられない状況が待っています。
この本の魅力はその状況から目を背けることなく、根拠のない希望を排して、「超高齢化社会」の中で人はどう生きるか、それは同時にどう死に向き合って生きるか、どう死ぬのかを追求したところにあると思います。
──もっとも重要な問題は、宝クジに当たるようなPPKを望むのではなく、人生の晩年において、自立した生活に向けて努力し、自分が納得した介護を受け容れ、障害をもったとしてもいかに幸福な人生と感じ、満足して死ぬことができるかということである。──
このPPKとは老いを感じた人が一度は口にする「ピンピンコロリ」のことです。これは幻想に過ぎません。人は老いをコントロールできません。ましてや死を計画を持って迎えることはできません。実にまれなケースとしてあるだけです。鈴木さんの統計データによるとPPKだと考えてもいい死亡例は65歳以上の総死亡者でわずか3%ほどだそうです。
PPKについて鈴木さんは興味深い感想を記しています。PPKが家族や周囲に迷惑をかけたくないというような「謙虚さと遠慮による要介護状態の忌避なのではないか」として、
──国民の三〇パーセントもの人口が高齢者となる社会で、高齢者自身が家族や他者に支援されることを忌避せざるをえない社会とはいったいどんな社会なのだろうか? 彼ら自身がこれまで汗水を流してきながら、そんな社会をみずから望んで作り上げてきたのだろうか(一方でPPKを唱えながら、ひとりで静かに死にゆく「孤独死」もまた強く忌避されるのは理に合わないと感じるのは私だけであろうか)。──
「老いを生きる」ことを今一度考えさせてくれる1節ではないでしょうか。
では、「老い」はどのようにやってくるのでしょうか。3つの能力の衰えからそれは始まります。
1.手段的自立:毎日の生活を自立して暮らすことのできる身体的な動作能力
2.知的能動性:健康情緒などの知的な活動能力
3.社会的役割:知人との付き合いなどの社会的かかわり
衰え(傷害)はまず、「社会的役割」、そして「知的能動性」にあらわれます。
──家庭内ではなんとか独りで生活してゆく(手段的自立)能力は保たれたとしても、いわば外部との関連性が失われ、徐々に閉じこもっていくことが容易に想像されるのである。したがってどうすればいつまでも社会とのかかわりを維持できるかが大切であり、家族や地域での高齢者に対する社会的支援を今後どのように充実させるかが課題である。──
では「手段的自立」の衰えはどのようにやってくるのでしょうか。それは「歩行障害」から始まります。歩行障害は移動能力の低下で、転倒、骨折だけでなく「独りではしっかりとした生活」ができなくなります。介助が必要とされることになります。
そして歩行障害から始まる身体傷害は排泄傷害、さらに摂食障害を引き寄せることになるのです。この排泄傷害と摂食障害をめぐるQOL(生活の質)の論議はデータを活用した興味深いものが提示されています。自分ならどのような選択をするか、読んでじっくりと考えてみるのもいいと思います。
QOLとなると「生きがい」といったものも肝心です。一般化できず極めて個人的なものですがそれを外すわけにはいきません。生きる意欲に繋がるものだからです。
死や介護は誰にもやってきます。鈴木さんは人間の二足歩行の重要性をうったえてこの本を結んでいます。
──世のなかに老化を止める薬はない。しかし、みずからの研究を含めて、あまたの研究成果からいえるのは、いつまでもしっかり歩けることが介護状態に陥ることを予防し、健康長寿を楽しむことの第一歩であり、「生きがい」の維持にもつながるということ。それだけはまちがいない。──
もちろん「老い」は社会の問題です。社会の制度整備を検証・提案するとともに「個人の老い」を手放すことなく論じたこの本の価値はこれからますます高くなると思います。必読です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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