人に話を聞き、それを伝えるのを仕事にしていた時期があった。いろんな人に会った。世界に何万人も社員がいる大企業の社長、豪華客船の船長、婦人科のお医者さん、芸能人、作家。もっとも印象深いのは数学者である。
リーマン予想の研究者として世界的に名高いその数学者は、西日差す大学の研究室で、こう語った。
「通勤電車の中で、よく素因数分解してるんですよ。材料には事欠きませんからね。日付、時間、住所、電話番号……世の中は数字であふれている。それを使ってやるんです。今日は2016年8月16日か。20160816を素因数分解すると……って」
すごいことだと思った。あなたのとなりに立ってるその汚いハゲオヤジは、頭の中で素因数分解してるのかもしれないんだぜ! そんな人がいるなんて、考えたこともなかった。
「有名な『ピタゴラスの定理』は、ギリシャのピタゴラスという人が約2500年前に証明したといわれています。当時のギリシャは、今のギリシャとは別の国なんです。ピタゴラスの数学の方が、国家よりずっと長生きなんですよ!……数学研究の最大の魅力は、誰も知らない真理を探究できること、永久の真理を獲得できることです。『ピタゴラスの定理』が今でも正しいように、今、何かを証明すれば1000年後でも正しく残っています。……まあ、そのころに数学を理解する『生物』がいたとして、ですけどね(笑)」
1000年後だって! 俺はそんな先のことを考えて仕事したことはない。心から、なんてステキなんだろうと思った。
もうひとつ、彼が語ったことを紹介しよう。
「長い時間をかけて研究して、その研究が的外れだったとわかることはしょっちゅうあります。5年も10年もかけなければ、それが的外れだということがわからない。宝を探して掘っていたはずなのに、宝が埋まっていないことがわかるのは掘った後なんです(笑)。ただ、長い時間をかけて掘っていたなら、宝は出なくても、ガラクタみたいなものは出るでしょう。それをおもしろいテーマに仕立てて、他人に紹介することは可能なんです。それが後から発展することも、よくあることですしね。……ある的を狙って、矢を放つ。残念ながらその矢は的から大きく外れていた。だったら、外れた矢が刺さった場所に、新しく的をつくればいいんです」
なんて素晴らしい考え方だろう! 涙が出てくるじゃないか。
本書は、数学がなぜ必要とされ、どのように発展してきたかを述べた古典的ともいえるような名著である。
多くの推理もので主人公の天才探偵が数学を専攻していることでもわかるように、私たちは「数学=頭のいい人がやるもの」と考えがちだ。これは誰もが根深い数学コンプレックスを持っていることの裏返しである。みな、自分が数学をやる頭に生まれついていなかったことに、小さな絶望を抱いているのだ。
本書は、そんな数学コンプレックスを抱いている人にとっても、格好の案内書となるだろう。解析、微積分、確率、統計、代数、集合……よくわからないまま通りすぎたあれこれを、やさしく解説してくれる。どうしてそんな考え方が生まれたかも、ていねいに語ってくれる。
言うまでもないことだが、本書を理解したからといって数学者になることはできない。しかし、タイトルどおり「数学の考え方」は知ることができるろう。それはたいがいの人にとって、値千金であるはずだ。だって俺、6+3+3、計12年も算数と数学をほぼ毎日やったのに、この本ではじめて知ったことがたくさんあったぜ。
本書を読みながら、何度も思った。
中学や高校のあの先生が、この切り口で教えてくれたら、もっと楽しく勉強できたのに。もっと好きになれたのに。いや、教師が、教え方が同じでもいい、誰かがこの本を紹介してくれたなら! 俺は数学の得意な少年だったかもしれない。ひょっとしたら数学者になっていたかも。だとするならば、世界的な損失だ!
もちろん、自分がそういう種類の人間でなかったことはよくわかっている。どう育ったって、俺は数学を専攻するような頭は持っちゃいなかったのさ。
ただ、こうは思うんだ。
自分は通勤電車の中で素因数分解する人にはなれなかった。でも、「今していることは1000年先の人類の役に立つ」そんな確信を抱いて仕事する人にはなりたかった。
この本は、今、数学を毎日学んでいる人にこそ、読んでもらいたい。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。