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2016.07.10

レビュー

「民主政」にリーダーも官僚も不要。最盛期の古代アテネはなぜ本物なのか?

民主主義を考える時、なぜアテネの民主政が理想とされているのでしょうか。それはアテネの民主政がペリクレスの考えたように、「たんなる国家制度ではなく、一つの生活様式(way of life)であった」からです。

つまり「どの市民も民主政への参加を期待される。彼らは公私両面において経験を積み、有能でなければならない。政治生活に参加せぬ者は、無能な市民と見なされる」というように市民の生活そのものだったのです。だからこそ「マケドニアによっていったんは廃止されたあとも、人々はその復活のため、いくども命がけで政変を起こし」民主政を復活させたのです。このアテネの民主政の姿から遠く離れたところに私たちは置かれています。民主政は進化したのでしょうか。

この本は今の民主主義に危機を感じている人、疑問に思っている人、もう一度民主主義を考えなおそうとする人にとって必読の名著です。

──日本で戦後民主主義が価値の源泉であった時代は、すでに過ぎ去った。民主主義の名のもとに政治家、官僚そして企業が半世紀かけて作り上げてきた体制の一部からは、いまや顔をそむけたくなるほどの腐臭が漂いはじめている。デモクラシーはいつのまにかテクノクラートのかげに隠れてしまった。民主主義ということばは、もはや手垢のこびりついた一つの空虚な符丁にすぎなくなったとさえおもわれるときがある。それに無条件の信頼を寄せることは、現在ではへたをすれば冷笑すら浴びかねない。このような現代に生きる人間に、アテネ民主政は何を語りかけるのか。──

人間の生活様式(way of life)だというアテネの民主政は市民ひとりひとりの生き方に強く結びついていました。そこではアマチュアリズムは肯定的なものだったのです。
──民主政のおおらかなアマチュアリズムの根底には、人間には本来、あらゆる能力・可能性が潜在的に備わっているのだという価値観が横たわっていた。──

では、私たちの民主主義はそのような生き方と結びついているでしょうか。残念ながらそうとは思えません。もし結びついているのなら“無関心”というようなことは存在しないでしょう。

もちろんこのようになったのにも原因と呼べるものはあります。その大きな一つが官僚制というものです。幸いなことに古代アテネには私たちのような強力な権限を持った官僚制はありませんでした。この官僚制の出現によりアテネにあったアマチュアリズムは放逐されました。

近代は官僚制を必要としたのです、国家の運営という名のもとに……。そして「国家は人間のために存在し、人間が国家のためにあるのではない」という民主政は転倒され「人間が国家のため」にあるという思考まで生まれてきました。(最近、ネットに「国民の生活が大事という政治は間違っている」と発言している政治家の動画が上がっていました)

──われわれが現代に生きる限り、何かの専門領域にしばられるのは避けられない宿命である。広い意味での官僚制なしに近代文明が一刻も維持できないのは、だれもが承知していることだ。にもかかわらず、民主政と官僚制とは根本のところで相容れない。自分の専門領域にだけ閉じこもる無機的な人間だけが社会を構成するようになったとき、民主政は生きることをやめるだろう──

無機的な人間とは「機能を生きる」ことしかできなくなった現在の私たちを指しています。
──機能を生きるということは、極端に言えば、専門以外の能力をすべて切り捨てることを意味する。古代ギリシアのポリス市民は、その対極にある生き方を理想とした。あらゆる方面にバランスよく、しかもそこそこに能力を発揮することが、民主政を支える市民としてふさわしい生き方だと考えていたのである。──

つまり、民主政の崩壊には人間の生存の変容が深く関係していたのです。専門化、分化という歴史的変遷の中で、すべての人に「あらゆる能力・可能性が潜在的に備わっている」という価値観は崩れていったのです。アマチュアリズムは「民主政の要石というべき」ものなのです。政治の家業化、世襲化というものほど民主政から遠いものはありません。行政(政治家)のプロフェッショナル化とはまさしく権力の独占化であり、姿を変えた“僭主政”“独裁制”と呼ぶべきでしょう。そしてそれこそが衆愚を生みだす一助にもなっていると思います。

この本にはもう一つ重要な考察・指摘があります。それはリーダーと民主政との関わりです。
アテネの民主政は人品卑しからぬ人柄で知られ、また優れた政治家でもあったペリクレスのもとで最盛期を迎えたとされています。ペリクレスは徹底的に“私”というものを排し「神経質なまでに清廉な行動を実践」した政治家でした。ペリクレスの死後、アテネは衰退の道を歩んだとされています。

──われわれは「アテネ民主政はペロポネソス戦争をさかいに衆愚政に陥り、前四世紀に入って堕落衰退した」という教科書の説明にあまりになじんできた。──

はたしてそうだろうかというのが橋場さんの問いかけです。ペリクレス以後の「英雄不在の小物ばかり」に見えるアテネの民主政はこう考えるべきなのではないかと。
──一人の傑出した英雄の存在を許さないという民主政の原理が徹底した結果であると考えることもできる。(略)人治から法治へと支配の原理を転換させたアテネの民衆は、ペリクレスのようなカリスマ性を備えた人格をもはや必要としないほどに成熟したのだとも言えよう。──

もともと傑出した英雄のもとで行われる民主政というのは矛盾したものでしかありません。そこでは民衆は“信任”を行うのみです。実は、家業化、世襲化した政治家に対するのと同じことになっているのです。どのような英雄であろうと、カリスマ性を持つ指導者であろうと、世襲の政治屋へ従うことと同じことになります。

では私たちはどのようにすればいいのでしょうか。「人治から法治」というものがひとつのヒントになります。アテネの「法治」とは民主政を守り、民主政を踏みにじる権力者を罰し、しりぞけるためのものでした。これは私たちの憲法観に通じるものがあると思います。

アテネの民主政は、通常言われる“民主政の最盛期(ペリクレス時代)”だけあるのではありません。むしろ衰退期といわれる姿に大いに学ぶものがあるように思います。そして「人間には本来、あらゆる能力・可能性が潜在的に備わっている」というアマチュアリズム、「民主政の要石というべきアマチュアリズム」をこそ心がけるべきではないでしょうか。「専門分化と集権化という事態そのものが、民主政の要石というべきアマチュアリズムの原則に反するもの」なのですから。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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