──現行の学校のもとでは、市民社会の秩序が衰退し、独特の「学校的な」秩序が蔓延している。それは世の識者が言うように、無秩序なものでも秩序過剰なのでもなく、人間関係が希薄なのでも濃密なのでもなく、人間が「幼児化」したわけでも「大人びた」わけでもない。ただ「学校的」な秩序が蔓延し、そのなかで生徒も教員も「学校的」な現実感覚を生きているのである。人々が北朝鮮で北朝鮮らしく、大日本帝国で大日本帝国らしく生きるように、学校で生徒も教員も「学校らしく」生きているだけのことだ。この人道に反する「学校らしさ」が、問題なのである。いじめの事例は、人間を変えてしまう有害環境としての「学校らしい」学校と、その中で蔓延する「学校的」な秩序をくっきりと描き出す。──(本書より)
この「学校的な秩序」が存在するということを見落とすと、ある事件では「学校の過剰な管理」が指摘されたり、また他の事件では「学校秩序のゆるみ」が指摘されるというように、〝いじめ〟は事件ごとに矛盾した原因が語られることになりがちです。さらは生徒の個性、性格にその原因を求めることもみうけられます。
この本のすぐれたところは個々の〝いじめ〟の事件・現象の意味することを的確に、個別に解明しながらも、〝いじめ〟全体がなぜ生じるのかを統一的に解明したところにあります。この一見矛盾した意見が出がちな〝いじめ〟現象を解明するために内藤さんが提唱したのが「秩序の生態学モデル」というものです。
●ふたつの秩序モデル
このモデルにはふたつの秩序モデルがあります。ひとつは「群生秩序」というものです。「それは、『いま・ここ』のノリを「みんな」で共に生きるかたちが、そのまま、畏怖の対象となり、是(よし)/非(あし)を分かつ規範の基準点となるタイプの秩序」というものです。
もうひとつは「普遍秩序」というもので、「群生秩序に対して、その場の雰囲気を超えた普遍的な理念やルールに照合して、ものごとの是(よし)/非(あし)を分けるタイプの秩序」を意味します。注意しなければならないのは「かならずしも普遍主義(普遍秩序)とヒューマニズム(人間主義)が結びついているとは限らない」ということです。
もちろん「普遍秩序」がヒューマニズムに結びつくことはあります。その結びついた典型例が「市民社会の秩序」です。この「市民社会の秩序」からはいじめはどう見えるのでしょうか。
──市民社会の秩序を「秩序」と見る視点からは、いじめの場に「秩序の解体」が見えてくるが、群生秩序を「秩序」と見る視点からは、「秩序の過重」が見えてくる。──(本書より)
同じ事象が全く正反対の「秩序」のあらわれとして考えられているのがわかります。ですから問題は、個人(生徒)がどちらの「秩序」の下で生きていると感じているのか、どのような「秩序」が内面化されているのか、ということになります。その内面的な「秩序」のとらえ方ができていないところから〝いじめ〟事件の原因に矛盾した主張が出てくるのです。
では、なぜ「市民社会の秩序」が「学校的」な秩序によって排除されてしまうのでしょうか。それは「学校」という空間に〝閉鎖的で特権化〟されている「群生秩序」があるからです。さらにそれを補完しているのが「学校らしさ」を求める教育制度です。この〝閉鎖的で特権化〟された空間ではどのようなことも起こり得ます。
●「不全感」と「全能感」が権力を生む
──ノリ(引用者注:場の空気)の秩序によれば、ひとりひとりの人間存在は、その場その場の「みんなの気持ち」あるいはノリの側から個別的に位置づけられて在るものであって、人間が「人間である」というだけで普遍的に与えられるものではない。人間は諸関係の総体である。いじめで盛り上がる中学生たちは哲学的な思考などしないが、近代実体主義を超えた徹底的な関係主義と社会構成主義を「いま・ここ」で生きている。──(本書より)
この空間で「不全感(むかつきという感情で代表されるものです)」というものが生まれると、そこから他者を支配したいという「全能感」が招き寄せられます。この「全能感」はいじめる側だけに生じるものではありません。いじめられた体験者がその体験をくぐり抜けたことによって、自らを「タフ」に生き抜いた者とみなし、新たな「弱者」を発見し「強者」となることがあるのです。「タフ」に生き抜いたという「全能感」がそこに生まれてくるのです。
この「群生秩序」内での「全能感」が「利害」というものと結びつくと、その先に「生きがたい」空間(内藤さんは〝政治空間〟とよんでいます)があらわれるようになります。ここには〝権力〟というものが発生しているのです。
──権力を行使するチャンスを手にした者は、利害の式からなる権力の図式を、他者をコントロールするパワーに満ちた自己というストーリーに転用(流用)して全能気分を味わおうとしがちである。権力が生臭いのは、利害図式からなる権力の骨格そのものではなく、かたちを全能図式にうつしとられやすいためである。──(本書より)
この〝権力発生のメカニズム〟はこの本の核心であり、図解を通して詳細に説明されています。そして学校という〝閉鎖的で特権化〟された空間で権力は増殖していくことになるのです。
内藤さんはこの〝権力論〟をもとに「生きがたい秩序」のへの根本的な改革案を提示しています。大切なことは、「人々がどういう生のスタイル」をとっていてもそれに応じて生きやすい生活環境を用意することです。ここではふたつの視点が重要だとされています。
──(1)現在、人々を狭い閉鎖的な空間に囲い込んでいるさまざまな条件を変える。生活圏の規模と流動(可能)性を拡大する。(2)私の区別をはっきりさせ、客観的で普遍的なルールが力を持つようにする。──(本書より)
内藤さんのこの〝いじめ論〟は〝権力論〟としてきわめて普遍性(拡張性)を持っています。そしてこの本の最終章では「全体主義」について論究されています。内藤さんが「中間集団全体主義」と名づけたものを抽出し、その意味合い重要さを指摘する箇所は思考の強靱さにスリリングな思いすらします。ぜひ読んで実感してください。
〝いじめ〟の分析から始まったこの本は、「秩序(公的なもの)」と「個人(個性)」の闘争を論点にすえることにより、普遍的な社会・権力関係への解析にいたっています。さらに、日本人特有の〝場〟や〝空気〟というものの持つ怖さをも射程にいれた読みごたえのある優れたものだと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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