たとえばこんな文章が眼に飛び込んできます。「ある不良少年が言っていた。「自分とは絶対的体格差があるやつが喧嘩相手だった場合。それこそプロレスラーみたいな人間の場合ですよ。そんな奴と喧嘩する時はハンディがあるから身近にある、武器を探して対抗します」。
卑怯ではないのか、と僕が問う。「何を言っているんです。相手の体格の方が卑怯でしょう」という答えが返ってきた。不良少年の世界では、これが普遍的な考え方なのだと思う」
このあたりが書名にいう〝生身〟なのではないかと思います。逆に言えば身も蓋もない、著者が体験(あるいは取材)した暴力の〝事実〟があふれている本です。著者の暴力の定義は極めてシンプルです。それは「暴力とは弱者へ向かうもの」であり「自分より立場が上の者や、肉体的に強い者へ向かうのは、暴力ではない。反抗であり反骨だ。弱者へ向かう暴力は「いじめ」と同義である。そして、暴力の本質とは「ダサい」にある」と。先の武器を探すという少年の話は、武器によって相手を相対的に弱者にするという「ダサい」暴力の一番分かりやすい姿をあらわしています。
この「ダサい」と深く関係しているのが「デビュー」の時期です。デビューとは「飲酒」「喫煙」「武器を使用しての喧嘩」など、「遊び始めた」とか「不良じみた事をし始めた」という意味ですが、久田さんによれば、この「デビュー」の時期によって「修羅場での振る舞いや言動に差異が生じ」、「デビューが遅ければ遅いほど、メリット・デメリットを計算せずに喧嘩をして、大事になる傾向」があるそうです。
◉一九八〇~九〇年代型犯罪
その例として「一九八〇~九〇年代型犯罪」というものがあげられています。「綾瀬女子高生コンクリ殺人事件」「市川一家四人殺人事件」「名古屋アベックリンチ殺人事件」「木曾川リンチ殺人事件」等の「一九八〇年代後半から一九九○年代前半に立て続けに起きた」陰惨な事件のことです。久田さんはこれらの事件の「特徴は「遅くにデビューしたダサい」人間たちが起こした犯罪と言える」と。これらは「集団意識から「ノリ」でやってしまった犯罪、それも卑劣で残虐な」ものではないかと指摘しています。このような事件は近年にも起きました。2015年2月の「川崎市中学生殺人事件」です。この事件の加害者は「ダサいかダサくないか」を判断できず「デビューが遅い、もしくはデビューすらしていなかった人間たちの「一九八○~九○年代型犯罪」だ」と久田さんは指摘しています。
これら「一九八〇~九〇年代型犯罪」の「犯人たちは、当時の記事では周囲から恐れられていたといった報道が散見されるが、それは「弱者」に向かってのみ「強者」だったから」と指摘し、「デビューをする事で「ダサくない事」の重要さを知る」ことがなかった、あるいは知ることが遅かったということが遠因にあるのではないかと言っています。この「ダサい」には「恥を知らない」というものにつながります。また同時にそれは周囲(先輩、後輩等)からの目(判断)を気にするということにもつながります。久田さんによれば、それは見方を変えれば、強い仲間意識というものに支えられたある種の「地元意識」とでも呼べるものなのだと。
もちろんデビューを早くすべきだとか「デビューが早いと重大犯罪を犯さなくなる」ということを久田さんは言っているのではありません。少年犯罪の底にある動因とでもよべるものを探り当てているのです。どのようなものであれ犯罪は許容できるものではありません。
◉酒鬼薔薇聖斗事件以後の新時代
きわめて興味深い「デビュー」論に次いで、この本では「一九八〇~九〇年代型犯罪」とはまったく異なった「デビューとも関係がない人間が犯した事件」が取り上げられています。「人を殺してみたかった」という一連の事件がありました。「これら動機不明な事件の通底には、一九九七年に起きた「神戸連続児童殺傷事件」、別名「酒鬼薔薇聖斗事件」が存在」しています。酒鬼薔薇聖斗がもたらしたものは「加害者より力の弱い」者への「卑劣、卑怯」な犯罪、ふるまいをしてもかまわないのだという「エクスキューズにも後押し」ともなるものでした。
これはその後のネット社会での犯罪に大きな影響を及ぼしています。「ネットの国」では「ネットの情報のみが正しく、新聞・テレビ・メジャー週刊誌は「マスゴミ」と呼ばれ、軽蔑される」。そして「この「国」では「反骨」や「反権力」といった概念は存在しない。「デビュー論」も存在しない。デビューなどした人間を見つけたらただちに「DQN」と記号化される」。ここには「不良少年と違い、「地元愛」はさほどない」、つまりかつての「不良少年の心情と真逆」になっているのです。周りから「ダサい」と呼ばれたくないというような歯止めはここにはありません。それが「一九八〇~九〇年代型犯罪」ではない新しい型の犯罪の底に見てとれるものなのです。
久田さんは暴力が新時代に入っていると言っています。「暴力にあこがれる風潮」、それが「SNSの普及により、この風潮が加速して」いるとも。「喧嘩凸」「リア凸」に始まり、暴行動画の投稿で分かるように「暴力は、身近にある」のです。コンビニでの暴力動画やタクシー内での久田さん実体験などの話は私たちのすぐそばでいかに暴力があふれているのかを教えてくれます。そして久田さんはその新暴力の究極の姿を「ISの処刑動画」に現れているといっています。
もちろん「暴力とは弱者へ向かうもの」ですから肉体への暴力だけでなく言葉の暴力も当然含まれます。言葉の暴力も肉体の暴力と同様に大きな被害を与えます。ネット上に飛び交う多くの罵倒語、それを書き込む人間には「何を言われても良い、何をされても良いという覚悟がない」ままに発している。そして「覚悟がないとは、想像力を働かせる事ができないということだ」ということが理解されていないのです。
それらに対して「本当の強さ」について久田さんはこう記しています。「優しい人間には想像力がある。それは強さに直結する。だから、想像力が働かず、外見だけで判断する人間は、危険に陥りやすい」。もちろん想像力には自分の行為、言動がどのようなものであるかの自省も含まれます。無思慮ほど想像力のなさを顕しているものはありません。久田さんはこうしてあのフィリップ・マーロウのセリフに再会します。「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」という言葉に。
傷害、殺人や恐喝だけが暴力ではありません。肩がふれたというようなことからも暴力が生まれることもあります。ヘイトスピーチ、ハラスメントなどの暴力にもさらされています。その中でどのように自らを守り、「生きる資格を得る」ことができるのか、久田さんの体験談に、時に驚き、時にうなづきながらこの本を読むのがふさわしい読み方ではないでしょうか。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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