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2016.02.13

レビュー

【人体実験は語る】普通の善人が、弱者に残虐になる瞬間

なぜヒトは「意図的に自分の仲間」を殺せるのか。「同種の仲間を殺すのは鋭い牙も強い力も持たないヒトだけ」であるのはなぜか……。この本はヒトの攻撃性はどこから生じてくるのかを認知心理学、実験心理学、脳科学等の知見をもとに追求したものです。

収められた数多くの実験、観察、検査データはとても興味深く読めます。たとえばビデオゲームと人間の暴力性の実験。ここでは「二〇分でも暴力的なビデオゲームをすると、他者への援助行動が弱まります。さらに日常的にこういうゲームをしていると、他者の痛みに対する感受性が弱まります」といったデータが紹介されています。

なかでも「スタンフォード監獄実験」はとても興味深いものでした。「監獄生活はどのような心理的影響をおよぼすのかを調べようとして」、ごく普通の大学生に看守、囚人の役割を演じさせたものです。「予想外だったのは看守役たちもすっかり『なりきって』しまった」ことであり、その囚人役の学生に対する行動がどんどんエスカレートしていきました。それは予想していないことでした。

「もとはといえば『囚人の心』を調べるためにおこなわれたものでした。しかし、その結果は、どこにでもいる普通の大学生が看守の役を担うと、思いもかけない残虐性を発揮」するという行動をもたらしたのです。監視役の暴走は止まる気配を見せず、この実験は1週間もたたずに中止されました。この実験をもとにした映画も作られました。それほどセンセーショナルなものだったのです。

なぜ、残虐性が現れたのでしょうか。この実験が私たちに教えてくれることはふたつあります。ひとつは「人間同士の関係において圧倒的な権力の差が生じると、たとえ普段は善意の人であっても、弱者に対して残虐行為をおこなうようになる」ということです。

もうひとつは自分が正義のもとにあると思った時です。より正確にいうと、川合さんによれば、「わかりにくいのですが、『何が正義か』ではなく正義とは『法を犯した者に処罰を与えられる力がある』ということが重要」になるというのです。「権力を持ったことで攻撃性が現れた、というわけではないのです。『空気』や集団としての無意識によって罰を受けるべきとみなした人に対して、より強い罰」を与える行動に出られたということです。つまり、外部にあるなんらかのものによって自己の行動が〝正当化〟できると〝感じた時〟に残虐性が現れたのです。

これをさらに明確にしたのがミルグラムの「服従実験」でした。詳細は読んでいただきたいのですが、この実験で明らかになったのは「ごく普通の人であっても、『権威ある者』から命令されると、それがたとえ不合理な命令であっても、みずからの常識的な判断を放棄して、その命令に服従してしまう」ということでした。映画『ハンナ・アーレント』のなかでも重要なシーンとして描かれた〝アイヒマン裁判〟でも同じことがみられました。アイヒマンはただ忠実に命令に従っただけという証言がされたのです。アーレントのこの裁判の傍聴記録『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』の副題の『悪の陳腐さ』がそれを物語っています。

川合さんはさらにヒトの心に大きな影響を与える外部要因のひとつとして「仲間はずれ」というものを取り上げています。驚くことに、わずか2分間の仲間はずれの状態のヒトの脳波がベトナム戦争やイラク戦争などで受けたPTSDの退役兵の脳波と同じパターンを示しているそうです。

ここからも、人間にとって集団というものがいかに重要なのかがわかります。「ヒトは集団から排除されると、自身が生存することも子孫を残すことも危うくなります。そのために、仲間はずれにされることを極端に怖れ(自分が正しいと思っていなかったことでも)他人の考えに同調し、それが極端になった結果として、いじめにつきあったり攻撃的になったりするのかもしれません」。攻撃性は仲間からの疎外、孤立の怖れからも生じることがあるのです。

確かに〝正義〟も〝権威〟も集団性の中で発現されるものです。どのような集団(=社会)に生まれ、育ち、生きるかによってヒトは大きく変わるものではあります。ですが、ここで注目すべきことはヒトの持っている〝互恵性〟というものです。贈与等がヒトの脳に幸福感をもたらすこともさまざまな観察、検査から明らかにされていまし、脳は不公正な者への罰に快感をも覚えるとも観察されています。

さらに、川合さんは、私たちの行動にひそんでいる不合理さというものに着目しています。それは、私たちがときおり感じる、「なんとなくよくない感じ」がするということです。実はこの心理状態が相互抑制をもたらしていると川合さんは指摘しています。

「自分がそうされるのは嫌だから」という行動原理は思った以上に実践的な原理なのでしょう。自分がされるのは嫌だからと考え、行動し、「ヒトは悪の側面を抑制していった結果、善の側面の価値が相対的に高まっていったのではないでしょうか」と。そしてそれを覆すのが先ほどのさまざまな外部要因なのです。〝ヒトの本性〟は残虐性を持つものだといい切れるものではないと思います。社会性、関係性の生き物であるヒトは互恵性を持ちつつも、時の社会的な状況によっては変貌しやすいものと考えるべきなのでしょう。

「人間は生まれてからの経験によって、思考や認知が大きく変容するので、環境の要因によって暴力的になることもあるかもしれません。また、遺伝子の変異や神経系の構造によって暴力的になることもあるかもしれません。しかし、人類全体で考えたときには、ヒトという生き物は、進化の過程で『善』を選択してきたからこそ、大きな集団を維持しつつも生活を向上させながら暮らしてこられたのではないでしょうか」。ここに大きな希望を私たちは見るべきなのだと思います。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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