身近にこんな話はありませんか? 数年前、業務で大きなミスをして問題になった人がまたミスを犯し、数年前のことまで取り沙汰されて陰口を叩かれています。しかしその人は他の業務では実績を挙げているのです。どうしてミスしたことばかりが叱責されるのでしょう。
一方ではかなりの実績を積んでいる人がミスをしたのに、その人の悪い噂は聞きません。これはどういうことなのでしょうか。
こうした一見理不尽にも見える物語の背景には、信頼と、信頼を形成するまでの人間関係や、そのときの人間の心理状態などが深く関わっているのです。
心理学部の教員でシンジ君は教え子のひとり。相談にきたシンジ君のために「人間はこういう条件を備えた人を信じやすい」「相手への信頼に応じて判断の仕方がこんなふうに変化する」という研究結果をもとに、分かりやすく「信頼」について解説してくれる。説明は分かりやすいが、不可思議なたとえ話や切り返しでシンジ君を困惑させることも。筆者とは同姓だが別人
あるメーカーの若手社員で、広報・顧客関係管理部門に所属。社会からの信頼向上が目標に掲げられているのにうまく行かずに悩んでいた。しかし、これには自分たちの信頼関係を改善することも課題であると気づいたため、学生時代から親しいナカヤチに相談することに。たまに出るナカヤチのフシギ発言に戸惑いつつも、持ち前の粘り強さで信頼の本質を探っている
1.「ネガティビティ・バイアス」で良い出来事より悪い出来事を重視する
ナカヤチ
「信頼の非対称性」が生じる理由はいろいろあって、その一つは、悪い出来事は良い出来事よりもインパクトが強いということです。
シンジ君
悪い出来事は強く意識されるけれど、良い出来事は意識されにくいということですね。
ナカヤチ
そうです。仮の話ですが、シンジ君が駅前の通りを歩いていると、前方に私が歩いているのを見かけたとします。そして、そのさらに前方を一人のおばあさんが歩いています。突然、そのおばあさんがばったりと倒れて、そのまま起き上がれない。ところが、私は、倒れたおばあさんに一瞥をくれただけで、そそくさと脇を通り過ぎてしまいました。
さて、シンジ君はどう思いますか?
シンジ君
ナカヤチさんなら、やりかねませんよね。
ナカヤチ
何を言ってるんですか。あくまで、仮の話ですよ。
シンジ君
まあ、びっくりするでしょうね。「ええっ、ここで知らん顔をするっ!?」って。で、ナカヤチさんを軽蔑しつつ、そのおばあさんの様子を見にいくと思います。
ナカヤチ
そして、シンジ君の適切な対処のおかげで、おばあさんは大事に至らずに済んだとします。その後はどうしますか?
シンジ君
ナカヤチさんがひどい人間であることをみんなに言い触らします。ツイッターで【拡散希望】のひと言を添えて。
ナカヤチ
シンジ君、わりと暗い人ですね。
無事に済んだのですから、そこまでしなくてもいいじゃないですか。
シンジ君
いえ、やります。それでナカヤチさんの評判が落ちても自業自得です。周りの人に「ナカヤチさんには気をつけろ」って注意を促すのは、むしろ親切な行為だと思います。
ナカヤチ
わかりました。では、別の設定で考え直して下さい。先ほどと同じように、前を歩いていたおばあさんが倒れてしまった。私はそのおばあさんに駆け寄って介抱を始めたとしたら、それを目撃したシンジ君はどう思いますか?
シンジ君
ナカヤチさん、人助けしているなぁ、良いことしているなぁって思います。
ナカヤチ
それだけですか?
シンジ君
それだけです。
ナカヤチ
何か薄くないですか?
シンジ君
薄いって何が?
ナカヤチ
シンジ君の反応です。私が知らん顔をして通り過ぎたときには罵詈雑言をツイッターで拡散しようとしたくせに、人助けをした場合は感心するだけですか。
私を褒め称えるメッセージを世界中に拡散してくださいよ。
シンジ君
何で、そんなことしなくちゃいけないんですか。倒れている人を助けたって、ある意味、当たり前のことをしただけじゃないですか。
ナカヤチ
ほらね、これが悪いことは良いことよりもインパクトが強いという例です。
非対称性どころか、もっとひどいとも言えます。なぜなら、おばあさんを助けるのがプラス10点の出来事なら、おばあさんを無視するというのは考えようによっては私がそこにいなかったと同じことでプラスマイナスゼロ、おばあさんを踏みつけて初めてマイナス10点という理屈だって可能でしょう。ところが、シンジ君は論理的にはプラスマイナスゼロの不作為をマイナス50点くらいに評価しています。踏みつけ行為に至っては……。
シンジ君
間違いなく警察に突き出します。
ナカヤチ
これが信頼の非対称性を生み出す一つ目のしくみ、悪い出来事は良い出来事よりもインパクトが強いということです。広く、「ネガティビティ・バイアス」と呼ばれる私たちの判断傾向の一つの表れと言えます。
2. 印象の悪いものに対し、良い情報を無視して悪い情報を優先する「確証バイアス」
ナカヤチ
じゃあ、二つ目を考えましょう。さっき言ったように、ある日、私が倒れているおばあさんの横をそそくさと素通りするのを目撃したとします。シンジ君は私を軽蔑します。そして後日、またまた私が歩いている前方で、別のおばあさんが倒れたとします。
ところが、今回、私はさっとおばあさんに駆け寄り介抱を始めました。
さあ、シンジ君、どう思いますか?
シンジ君
きっと、介抱するふりをして財布を盗み取ろうとしているんだと思います。
ナカヤチ
君はいったい、私をどういう人間だと思っているんですか。
シンジ君
すみません。ナカヤチさんがヘンなことばっかり言うもんだから、気持ちがすさんできました。
ナカヤチ
まあ、いいでしょう。なぜなら、その答えはあながち的外れではないからです。倒れているおばあさんの横を素通りするような人間が、次回、おばあさんに触っていたら、改心したと考えるよりも、悪いことをしていると解釈するほうが一般的です。
私たちが接する情報は、必ずしも固定的で明確な意味を持ったものばかりではなく、あいまいで解釈の余地が大きいものもあります。そんな場合、私たちはすでに抱いている相手への印象に応じて、その情報を解釈しようとする。あるいは、悪い印象を持っている人について、良い情報、悪い情報の両方に接する機会があるとしても、良い情報は無視して、悪い情報を取り入れ、元の悪い印象を維持する傾向があります。これが信頼の非対称性をもたらす二つ目の理由で、「確証バイアス」と呼ばれます。
シンジ君
じゃあ、元々良い印象を持っていたら、その後の情報を良い方向に良い方向に解釈するということになりますよね。すると、元々信頼が高い人は信頼が落ちにくいということになりませんか。もしそうなら、確証バイアスは信頼が低下しやすいことの理由にはならないのでは?
ナカヤチ
おっ、するどい。半分はその通りです。つまり、元の信頼が高い人について良い情報と悪い情報があると、元の評価に一致する良い情報のほうが重みを持つので高い信頼が維持されやすい。一方、元の信頼が低い人について良い情報と悪い情報があると、元の評価に一致する悪い情報のほうが重みを持つので低い信頼が維持されやすい。これは「信頼の二重非対称性」と呼ばれます。
ですので、信頼が低下しやすいことを強調する非対称性というのは、二重非対称性のうち元の信頼が低い前提での傾向ということになります。ただ、現実的に信頼の問題に取り組もうとするのは、信頼が落ちていて、それを回復したいという場合が多いでしょう。ですので、良い材料が無視され、悪い材料のほうが重視されてしまう形での確証バイアスが効いてくることになります。
3. 悪い出来事は他でも起こると思うが、良い出来事は他でも起こると思わない
ナカヤチ
さて次に、三つ目の理由を考えましょう。私は倒れているおばあさんを無視し、ドサクサ紛れに財布をスリとろうとするような人間だとします。シンジ君、そんな私が、誰もいない駐輪場で他人の自転車が倒れっぱなしになっているのを見たら、立ててあげたりすると思いますか?
シンジ君
それはあり得ないですね。倒れているのが人間でさえ知らん顔するのに、自転車をわざわざ立ててあげたりしないでしょう。
そもそも、倒れている人から財布を盗むなんて、良心が壊れているわけですから、人が見ていないところでは悪いことをしたり、借りたお金を返さなかったり、ロクなことはしないような気がします。
ナカヤチ
じゃあ、おばあさんを助けた私ならどうですか。倒れているおばあさんを助ける私なら、倒れている自転車も立ててあげると思いますか。
シンジ君
うーん、何とも言えないですけど、それとこれとは話が違うような。普通、人が倒れていたら何とかしなくちゃって思うだろうけど、自転車が倒れているからって、どうしてもなおさなきゃとは思わないです。
ナカヤチ
そうでしょうね。つまり、ある場面で悪い行為をする人は別の場面でも悪い行為をするだろうと一般化して考える。けれども、ある場面で良い行為があったからといって、必ずしも他の場面でも良い行為があるとは考えない。これが信頼の非対称性をもたらす三つ目の理由で、ひと言で言うと、悪いことは一般化され、良いことは限定的に見られるということです。
このため、何か不祥事があると信頼は他の側面にも波及して悪化するのに、良いことがあっても、波及効果で全体的に信頼が高まることはあまりない。
シンジ君
それって、信頼に限らないと思います。定期テストが採点されて戻ってくるとき、最初の科目の結果が悪いと、他の科目も全般的に悪いんじゃないかと悲観的になりますけど、最初の科目が良くったって、この科目だけたまたまじゃないかと疑います。
ナカヤチ
それは君のパーソナリティもあるんじゃないかな。私なんて、最初に戻ってきた科目の点が低いと採点間違いじゃないかと疑いますけどね。
今日、学んだこと。
「悪いことにはバイアスでさらに不信が強まる」
ナカヤチ
たとえば、ある国からの輸入食品の安全性に問題が出ると、輸入食品全般に波及する形で買い控えが起こったりします。けれども、問題となった輸入食品を回収し、輸入を停止しても、「その食品については確かにもう被害は出ないだろうけれど、他の輸入食品はまだ不安」となりやすい。ひどい列車事故が報道されると、列車以外の公共交通への不安も少し高まりますが、その後に列車事故対策を行ったとしても、不安が緩和するのは列車事故に対してだけであって、他の交通機関についての不安はあまり緩和されない。つまり、被害や災害はその原因となった対象だけでなく、それが含まれるカテゴリー全体について、人びとの不安感を高めてしまう。一方、そういった被害や災害のリスクを抑える対策をとると、その対象そのものについての不安感は低下するものの、カテゴリーレベルで不安の低下が波及することはない、ということです。
信頼の非対称性が生まれるしくみは細こま々ごま見ると他にもありますが、大きなところはこれまでお話ししてきた通りです。
ネガティビティ・バイアス、確証バイアス、悪い事象の一般化と良い事象の限定化、などです。
そして、こういった特性を個人個人が持っているように、強力な情報供給元であるマスメディアにも同じ傾向があるので、信頼の非対称性が増幅することになります。新聞記事やニュース番組では、信頼を高める良い話よりも信頼を突き崩す事件の報道量が圧倒的に多いでしょう。事件の犯人が逮捕されると、裁判で有罪が確定する前に、有罪であることを前提として、なぜ、どのようにしてその犯行に至ったのかが事細かに報道されます。あからさまな確証バイアスと言えなくもないのですが、こういったメディアの報道姿勢は読者や視聴者がそのような情報を求めているから生まれてくるものなのです。
シンジ君
今日は「信頼の非対称性」について学びましたが、ぼくと一緒に、ナカヤチさんの信頼に関するお話をもっと聞きませんか? 信頼の本質についてもっと知りたい方は、現代新書『信頼学の教室』をぜひ読んでください。
ナカヤチ
唐突にしびれるような宣伝文句をありがとうございます。
「信頼の非対称性」
信頼の獲得には時間がかかるのに、たった一度ですぐに信頼を失うこともある
他者から信頼を得るには、信頼に足る根拠をたくさん積み重ねていくことが必要で、それには長い時間がかかります。ところが、信頼を失うにはたった一度のまずい出来事があれば十分で、したがって、信頼はごく短時間で失われてしまいます。このように、信頼を築くための時間や一つひとつの根拠の重みと、信頼が崩壊するまでの時間や出来事の影響力の大きさが、非対称的な関係にあることを信頼の非対称性と言います。「得るは難く、失うは易し」ということです。