この本ではわかりやすいように、「昔トンデモだと思われたものが後で正しいとわかった」、または「今はトンデモだと思えるものが昔は正しいと思われていた」の2パターンに絞って例を挙げてはいるが、実際はそこまで話は単純ではない。トンデモ理論が別のトンデモ理論を生み、紆余曲折の結果、やっと正しい解にたどり着いた、という場合もある。
本書で扱われるテーマから、多くの人は「天動説と地動説」の辿った歴史を思い浮かべるだろう。だが、それだけではない。主な登場人物は、アリストテレス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインなど、多岐にわたる。我々は、いまでは当たり前の普遍の事実として知られるような事象も、はたして当時の科学レベルで(あるいは可視領域で)容易に受け入れられるものだったかということも含めて考えなければならない。また、当時のかまびすしい反発・反論に対して、先人たちがいかにして対処してきたかという事例も見受けられて、勉強になる。
万有引力がオカルトだ、というのは今の我々からすると想像を絶しているが、この反発は見ようによっては「現実を説明するならばどんなにトンデモでも(いったんは)受け入れなくてはならない」という科学観の確立前の最後の抵抗だったと考えることもできる。実際、ニュートンは大陸諸国で一斉に巻き起こった「(オカルト的な)遠隔力の理由を説明すべき」という非難に全く対応する気がなく、万有引力は物理的にではなく数学的にだけ考えなければならないと断っている。これはある意味で、動因を排して運動学に徹することで誤謬を避けたガリレオの立場を一層徹底させたと言うこともできる。
明らかに何もない真空中が実はエーテルで満たされているというのは考えにくい。にもかかわらず、当時としては、何もない真空を電磁波が伝わる、というほうが、見えないエーテルで宇宙が満たされている、というよりもトンデモだったのだ。
この辺りになるとなかなか何がトンデモかという感覚が今と異なっており、今までの例に比べると共感しにくいことこの上ない。
かくして「真空中を満たし、軽いが鉄より硬い、電磁波を伝えるエーテル」という電磁気学きってのトンデモ理論は20年も続かなかった。
(中略)
もし、人類が電磁波を「見たり聞いたり」できる感覚器を持っていたら、きっと、エーテルは「電磁波を伝える謎物質」として電磁気分野で押しも押されもせぬトンデモ概念として科学史に燦然と輝いていたに違いない。電磁気学分野にトンデモが少ないのは、このような僥倖(あるいはトンデモになりそこねたと思えば不運)も大いにある。
正しい仮説からは正しい結果が得られるのは当たり前だが、間違った仮説から正しい結論が得られてしまう場合はどうすればいいのか? しかも、正しい仮説でも間違った仮説でも同じ結論が得られてしまう場合にはどうするのか? 人間はどうやってどの仮説が正しいかを決めればいいのだろう?
ナビエ-ストークス方程式が、本書で触れた他の多くの話題(かつてトンデモだったが今は正しい、または、今はトンデモだがかつては正しかった、のどちらか)と大きく異なっている点は、「導出はトンデモ感満載なのに現実に非常によく合うため、改善されたことが全くなく、現代でも『なんでよく合うんだかわからないけどメッチャ合うから』という理由でそのまま使われている」という点である。まるで今の生成AIのことを言っているのではと錯覚さえ覚えるほどだ。
それでも、人類はそうやって科学を紡いできたのだ、と本書は説く。トンデモ科学と、本物の科学の差は、実は非常に見えづらい……こともあるのだ(特に同時代においては)。歴史がそれを証明している、そしておそらく現在・未来にも……と教えてくれる一冊でもある。
あなたが何かトンデモ科学らしいものに出合ったら、細部を見ることをお勧めする。その理論が何か別の目的(金儲けや政治的な扇動)のために作られたものなら、細部はきっといい加減なはずだからだ。むしろ細部を見て「これくらい妥協してもいいのに」と思うようなところに徹底的に拘っていたら、それはただのトンデモ科学ではなく、疑似トンデモ科学であって、科学の発展に貢献するトンデモであるのに違いないから。







