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2026.10.11

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海軍経理学校出身の父が目撃した、戦争の過酷な現実。阿部公彦さん『父たちのこと 一九四四年のクラスメイト』

21歳、海軍経理学校の卒業後すぐに戦地に赴いた父が見た「戦争」とは何だったのか。新刊『父たちのこと 一九四四年のクラスメイト』をめぐって、著者の阿部公彦さんが、章ごとの概略と執筆後の感慨を綴った特別エッセイを公開します。

個人的で具体的な戦争の記録

 戦争は、つねに個人的な体験でもある。誰にとっても等身大の戦争がある。組織の末端とはいえ、父は戦争を遂行する側にいて、数メートル、数センチ単位で事がどう動いたかを見ていた。

 父の体験を元にしたこの本をどこから読んでもらおうか、と考える。当然、冒頭には、最初に来るべき章を置いているつもりだが、果たして第一章からめくってもらうのが最善なのだろうか。

「群像」に掲載された第一章を読んで、ある友人は「悪夢にうなされた」という感想をくれた。父の海軍経理学校の同窓生にも同じような反応をした人がいたらしい。同窓会誌に掲載された記事を読んでその人は愕然とし、海軍への信頼が完全に失われて悲しい苦い思いに陥った、と言っている。

 問題のビハール号事件は、民間人捕虜が虐殺されたスキャンダルで、日本の軍隊による戦争犯罪の中でももっとも凄惨なものの一つだった。父が戦場で遭遇したAさんの証言は非常に具体的で、その心境を思いやると、「悪夢にうなされた」という感想は決して誇張ではないと思う。

 第二章では陥落寸前のマニラを描いた。このとき、マニラには沈没艦船から逃げ延びた海軍の将兵たちが集まっていた。陸軍はすでにマニラを捨て山中への転進をはじめていたが、海軍は港湾地帯を死守すると決めた。父はもはやエレベーターの動かない眺めのいい高級ホテルで、クラスメイトたちとのつかの間の再会を果たすが、多くは生きては帰れないと覚悟を決めているように見えた。幹部たちは早々にマニラを去ってしまった。
 
 そんな中、父にも本土への帰還命令が下る。父たちを乗せたバスは、暗闇をヘッドライトも点けずに空港に向けて疾走した。しかし、空港で待っていたのは、過酷な状況だった。死に至るときまで父は、この日、起きたことは忘れられなかった。息子である私にとっても「そういうことだったか」と考えこまざるをえない。人間の生命がさまざまな突発的な出来事に翻弄されるのは当然のことで、生まれるということ自体、偶然の産物である。いつ訪れるかわからない死もまた、必然的に「不測の事態」だ。しかし、そういったことを受け入れるのは簡単なことではない。
 
 第三章は母の従兄のフランクのことを書いた。英国人の母と日本人の父との間に生まれ、バイリンガルとして育ったフランクは、「英語の達者な人」として国際舞台での活躍を嘱望された時期もあったが、まもなく陸軍で通訳をするようになり、占領地で英語による布告文などを作成した。
 
 フランクの最期のことはこれまでほとんど知られていなかったが、今回、調査すると興味深いことが明らかになった。ちょうど私の父が陥落寸前のマニラで生死の境界をさまよっていた頃、フランクは同じマニラで、日本軍に目をつけられていたマニラ大司教オドハティと親しくなっていたのである。オドハティはアイルランドの出身。フランクが母親から受け継いだアイルランド訛りの英語が大きな役割を果たしたのではないかと私は考えている。
 
 第六章では、父が庶務主任として乗艦した駆逐艦「秋風」での、ときに微笑ましい、しかし最終的には痛ましいの一言につきる数ヵ月を、父による分析もおおいに参照しながらたどった。戦場の「美談」なるものがいかにあてにならないかがよくわかる。第八章から一〇章は、第九次オルモック輸送作戦のことを描いている。父の最後の戦場体験となった作戦である。数万という将兵の犠牲者を出したこの無謀な作戦を、いわばミリ単位の視線で見直した記録となった。
 
 本書は自分の本という感覚はあまりない。父の語りが私に乗り移ったり、私が父の語りに憑依したりしながら書き進めた。これは感情移入ではない。むしろ逆で、この本を書いたことで、父がいかに自分から遠い存在だったかを私は知ることとなった。私の知らない父の姿がそこにはあった。
 
 父は二〇一一年に八十八歳で亡くなったが、実家の書斎は今でもほとんどそのまま残っている。おかげで文書や手紙から小学生時代の日記、海軍経理学校時代の写真、候補生時代に密かに描いた軍艦のスケッチ、沈没する駆逐艦「夕月」から持ち出した「第三十駆逐隊」のハンコ、晩年、勤務先であった総領事館のIT化を助けたポケットコンピューター(一九八三年購入)などさまざまな資料や遺品を見つけ出すことができた。故人の物持ちのよさと記憶力とがなければ形にならなかった本である。

(『群像』2026年9月号掲載)
雑誌「群像」:
「群像」は1946年10月に創刊した文芸誌であり、講談社で最も歴史のある雑誌です。連載「本の名刺」は、新刊を出した著者が自分の本を紹介する、人気のエッセイコーナー。話題の新刊や人気の著者による、本が生まれた背景や著者の思いをお楽しみください。
阿部公彦(あべ・まさひこ)
1966年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授。英米文学研究と文学一般の評論を行う。1998年「荒れ野に行く」で早稲田文学新人賞、2013年『文学を〈凝視する〉』でサントリー学芸賞を受賞。著書に『英詩のわかり方』『英語文章読本』『小説的思考のススメ: 「気になる部分」だらけの日本文学』『即興文学のつくり方』『スローモーション考: 残像に秘められた文化』『幼さという戦略  「かわいい」と成熟の物語作法』『詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること』『英文学教授が教えたがる名作の英語』『病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉』『事務に踊る人々』『文章は「形」から読む ことばの魔術と出会うために』など。


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