大学入学とほぼ同時に松竹と専属契約し、新進女優として注目されていた岩下志麻さんは、小津の遺作となった名作『秋刀魚の味』(1962年)で主演女優に抜擢された。
公開当時、まだ21歳だった。
映画産業が国民的人気を集めるなか、数千倍の倍率を突破して松竹に入社した「監督候補」には、吉田喜重、大島渚、山田洋次、山田太一らの俊英がいた。
篠田正浩は、早大では競争部の一員としてエース区間の2区を走る一方、演劇学科で歌舞伎と近代演劇の接点について考察を深めた。
1953年に松竹に入社すると、小津、渋谷らの作品で助監督を務めたあと、弱冠29歳の若さにして監督に抜擢されている。
次代の映画界を牽引する二つの才能が恋に落ちたのは、自然な成り行きだった。
撮影所の俳優館の前の桜並木の道を歩いていると、篠田が向こうからやってくるのが見えて。
普段は人通りが多い道ですが、なぜかそのときだけは誰の姿もなかったと思います。すれ違うとき、篠田がすっと手紙をくれたんです。
「昨日はありがとう。せっかく来てくれたのに、すみませんでした」という、とても丁寧な文面でした。
夕暮れの光に、満開の桜がとても美しかったのをよく覚えています。
(第5章 「ロシアからの手紙」より)
10歳の年齢差は、障害にはならなかった。
時代劇『暗殺』の撮影で訪れた京都の行きつけの料理屋で映画論、演技論を語り、二人は互いの才能に惹かれ合い、そこから同棲、結婚までは一直線だったという。
次代を担うトップ女優の結婚に周囲は当然、大反対だった。
松竹の幹部は入れ替わり立ち代わり「考え直せ。なぜわざわざ一人の男のものになるのか」と説得したというが、決意は揺らがなかった。
結婚し、独立プロ「表現社」所属となってからの篠田正浩監督と女優・岩下志麻さんの活躍は、誰もが知る通りだ。
1977年の『はなれ瞽女おりん』では、盲目の女旅芸人を見事に演じ切り、栄えある第1回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した。
この年、『幸福の黄色いハンカチ』(山田洋次監督)『八甲田山』(森谷司郎監督)で最優秀主演男優賞を受賞した高倉健とは、授賞式の楽屋で互いに「おめでとうございます」「ありがとうございます」と言い合い、その後は無言だったという意外なエピソードも明かされている。
女優として成熟した40代半ば以降、岩下志麻さんは『極道の妻たち』というエンタメ映画で一世を風靡する。
一方篠田監督は「日本とは何か、日本人とは何か」をテーマに、己の信じる誠実な映画を創りつづけた。
その最後の作品となった『スパイ・ゾルゲ』の制作発表で、岩下志麻さんははじめて、「妻としても、心からこの映画の成功を祈っております」と涙ながらに話し、記者たちを驚かせた。
知性派で知られた二人は周囲からクールで、スタイリッシュなカップルと見られていたが、ともに映画を創る「同志として」、ともに生きる「妻として」深い信頼関係があった。
老齢に足を踏み入れた篠田監督を支える本書ラストの3章には、涙なくしては読めない痛切なエピソードがいくつもつづられている。
日本を代表する超一流女優として活躍しながら、いつしか篠田監督にシンクロするように同じ道を歩み始めた岩下志麻さん。
2025年、94歳で監督が亡くなったとき、岩下さんは立ち上がれないほどのショックを受け、強い喪失感に襲われたという。
周囲の勧めによって本書の制作を決意し、監督の作品を見たり、その著書を読むことで、二人で歩いた58年を再確認し、ようやく少しずつエネルギーが湧いてきた、と明かしている。
二つの才能の奇跡的な出会いと、痛いほど純粋な愛の物語。
年齢や、立場を問わず、あらゆるカップルに「夫婦とは何か、生きるとは何か」を問いかける、稀有な、そして感動的な一冊である。
──ノンフィクション出版部 T.A.







