『映画の奈落 完結編 北陸代理戦争事件』『仁義なきヤクザ映画史』などの著作で注目を集めてきた、1960年生まれの映画史家・伊藤彰彦。待望の新刊のテーマは「80年代日本映画」。帯には『家族ゲーム』(1983年)や『お葬式』(1984年)、『すかんぴんウォーク』(1984年)といったヒットタイトルの数々が賑やかに並ぶ。実はその内容は、約50年もの長きにわたって活躍してきた名プロデューサー、岡田裕の足跡を辿ったものである。
1960年代に大手映画会社の日活で助監督の経験を積み、70年代からは社員プロデューサーに転向して『桃尻娘 ピンク・ヒップ・ガール』(1978年)などのロマンポルノ作品を手がけ、80年代に入ると専属契約を解除されてフリーランスでの活動を余儀なくされる。しかし、スタジオという頸木(くびき)から解き放たれたことで、岡田氏らの設立した製作会社ニュー・センチュリー・プロデューサーズ(NCP)は野心的な企画を次々と手掛けていくことになる。そのバラエティに富んだ経歴は、まさしく日本映画の変革と多様化の変遷をそのまま体現するものだ。
同時代に活躍し、のちにアルゴ・プロジェクト創立メンバーとして肩を並べたプロデューサー陣のうち、伊地智啓には『映画の荒野を走れ──プロデューサー始末半世紀』(インスクリプト)、佐々木史朗には『時の過ぎゆくままに』(ワイズ出版)という語り下ろしの分厚い自伝がある。それだけにプロデューサー岡田裕の仕事に迫った本書は、映画ファン待望の一冊と言えよう。伊藤彰彦のこれまでの著作同様、徹底したリサーチ力、厚みのある関係者インタビュー、凡庸な批評家とは一線を画すジャーナリスティックな着眼点の確かさは、本書でも健在だ。
にっかつ(旧・日活)からの独立に先駆ける転機のひとつとして、岡田氏が出向参加した角川春樹事務所製作・深作欣二監督の超大作『復活の日』(1980年)のエピソードが、まずいきなり面白い。確かにこれだけハードな経験をすれば、どんな逆境にも易々とは怯まなくなるだろう。南極ロケの拠点となった南米チリで、ある日本人の有力者と出会い、本物の潜水艦を当時の軍事政権から借りられることになった逸話は特にすごい。そのスケールの大きさと、落ち着いた口調とのギャップに、只者ではない雰囲気が漂う。
岡田 僕が会ったのはほんの偶然からなんですが、西村さんと話をするうち、チリ海軍から潜水艦を借りられるかもしれないと、トントン拍子に話が進んだんです。そのあと、何度もサンティアゴ(チリの首都)に足を運び、西村さんが開く、政府の高官の奥さんたちとのホームパーティーのために、日本のお土産としてネックレスをプレゼントしたりしながら、彼と話を詰めていきました。
(中略)
ピノチェトは西欧社会から非難を受け、国際的に孤立していました。だからこそ、日本もふくめた西側諸国と交流したがっていた。そこが弱みだった。そうした状況下だから、僕らも潜水艦を借りられたんだと思います。
その後、岡田氏ら元にっかつのプロデューサー陣は1981年にNCPを設立。新進気鋭の監督たちを次々と表舞台に送り出し、80年代の日本映画界に多大な功績を残した。近年では「好景気に浮かれた軽薄な時代」として振り返られることの多い80年代だが、その一方で数多くの型破りな試みが行われ、新しい才能が続々と生まれた刺激的な時代でもあった。
当時の活気溢れる様相を、岡田プロデューサーを中心に、根岸吉太郎監督、滝田洋二郎監督、金子修介監督、脚本家の丸山昇一や荒井晴彦、にっかつ企画部出身でのちに脚本家に転身した山田耕大といった錚々たる面々が大いに語る。その内容は実に興味深く、当時の映画界に横溢していたチャレンジ精神や反骨心が、熱気とともに伝わってくるようだ。
たとえば、丸山昇一が語る『ヨコハマBJブルース』(1981年)の撮影現場でのエピソード。ある日、撮影現場に少し遅れてやってきた工藤栄一監督が、指示を待つスタッフに対して「みんな、何そんなに真剣で真面目な顔してんの? まずコーヒーを飲もうよ」と言い出す。
丸山 みんなで熱いコーヒーを飲みながら雑談会が始まって、工藤さんが冗談ばっかり言って、最初、スタッフは監督の冗談を真に受けていいのかどうかがわからなかったけれど、だんだんスタッフの気持ちがほぐれて、みんな気を許して、大笑いしたんです。そんなとき、工藤さんはおもむろに、チョークで地面に絵コンテを描き始めた。
痺れるほどカッコいいエピソードである。この作品にラインプロデューサーとして参加した岡田氏は、主演の松田優作と、のちに『家族ゲーム』でも仕事を共にする。
『家族ゲーム』の森田芳光監督はそれまで一般的だった撮影所育ちの職業監督ではなく、自主映画出身の新世代だった。岡田プロデューサーは、時に「森田が考えていることは観客の誰にもわからない」と笑いつつ、強固なこだわりと発想の飛躍を併せ持つ彼の才能と長所を見出す。その言葉が実にスマートだ。
岡田 けれど、森田は観客のカタルシスを拒否しない。オーソドックスは知っている。それでいてオフ・ビートなタッチも加える。ふつうの監督がやらない時(テンス)の繋ぎをするんです。こういう人は撮影所にはいなかった。新しいタイプの監督だと思いましたね。
NCP時代に手がけた作品のエピソードで、やはり抜群に面白いのは『コミック雑誌なんかいらない!』(1985年)の章だ。内田裕也が企画・主演し、ピンク映画出身の滝田洋二郎監督にとっては初の一般商業映画となった。まさしく80年代という時代の空気を余すところなく切り取った象徴的傑作だが、実はプロデューサー不在のような状況で走り出した企画だったことなど、すべての裏話が映画同様に面白い。NCPの担当プロデューサーだった海野義幸は「こんな企画、映画になるわけない」とまで漏らし、当初はスタッフルームさえ満足に用意してもらえなかったという。
滝田 でも、逆にそれがよかったんです。「キャスティングも勝手にやれ」って言われて、裕也さんが頭に来て、「よーし、わかった!! 岡田のヤローとケンカして、金いくらかかってもいいから、こっちでやるゾ」と、自分で郷ひろみから三浦和義まで電話した。(中略)ビートたけしさんに出てもらおうと思って、たけしさんの草野球のチームに入って、裕也さんは野球をやっていました。結果、錚々たるキャストを一日仕事の「友情出演」ということにして、かえってお金が安く済んだんです。裕也さんに「お金ください」って言う人いませんから(笑)。
そんなムチャクチャな機動力で突き進む内田裕也と、「4千万円の予算が8千万円になった」と語りながら堂々と構える岡田プロデューサーのやりとりも、ヒリヒリしていてかっこいい。
滝田 誰かが「野球場、夜なら借りられそうだぞ」と言ったら、「それだ!」みたいなノリで、金のことなんか知らねえよみたいな。面倒なことが起きると岡田さんと裕也さんの二人に振って、喧嘩をしていただく。
岡田 毎晩のように裕也さんから電話がかかってきたね。
滝田 だけど、岡田さんはまったく動じない。本当の心のうちはわかりませんけど、平然と構えている。
岡田 だって、映画って理路整然と作られるもんじゃないからね。わがままがぶつかり合ったりしながら、できるものはできるんだ、と思っていました。
そんな岡田プロデューサーが助監督時代から敬愛する藏原惟繕監督、その弟子筋にあたる藤田敏八監督とのエピソードも胸を打つ。本書のクライマックスを飾るのは、意外にも高倉健主演・藏原監督による海外ロケの大作『海へ See You』(1988年)だ。「意外にも」と書いたのは、巷ではこの作品が失敗作として語られる(もしくは無視される)ことが多いからである。
岡田プロデューサーが「死にかけた」と語るほど壮絶な失敗を喫した『海へ See You』の製作過程は、息を呑むほどドラマチックだ。しかし、どうしても作品主体で考えがちな批評家の視点では、取りこぼしてしまうものが多い。だからこそ、こうした作品評価に縛られないジャーナリスティックな視点が、語られなかった貴重な物語を拾い上げることもある。そんなことをまざまざと思い知らされる。
1990年代、岡田氏らが新たに立ち上げた「アルゴ・プロジェクト」の短くも輝かしい冒険についても、本書後半では少しだけ触れられている。これ以降も『12人の優しい日本人』(1991年)や『ヌードの夜』(1993年)、『女はバス停で服を着替えた』(2003)など、岡田裕プロデュースの傑作・秀作は枚挙に暇がないが、本書のテーマはあくまで「80年代」。物足りなさを覚える読者もいるだろうが、本書が好評を博せば、アルゴ以降の活動を語り下ろす企画も実現するかもしれない。岡田裕の映画人生そのものが「切り口」として立派に成立することは、本書を読めば十分わかるはずだ。
そして、80年代が日本映画にとって明らかに「冒険の時代」であったことも、随所に溢れる熱気からありありと伝わるだろう。なぜあの時代の映画たちは、そして映画人たちは、今も我々を惹きつけてやまないのだろうか。その答えのひとつを、終章で滝田洋二郎監督がさらっと語っていて、とてもいい。
滝田 それと、八〇年代は、岡田さんみたいに、映画を作るのが当たり前というか、それを生業として生きてる人が映画を作ってたような気がするんですよ。要するにそれ以外考えられない人たちがね。気障な言い方だけどさ、映画には魂がちゃんと宿ることを知ってる人、その喜びを知ってる人が映画を作ってたんだ。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。