丹波(哲郎)さんが逝って(2006年)ずいぶんと経った。
「丹波哲郎って知ってる?」と若い人に聞くと、「ええ、もちろん、大霊界の人ですよね」と返してくる。私は少し腑に落ちない顔をし、会話を終える。私にとって丹波さんは、けっして「大霊界」だけの人ではない。やはり『キイハンター』の人であり、『Gメン’75』の人であり、また映画『日本沈没』で、国難を憂う総理大臣を演じた、あの丹波哲郎さんなのである。
丹波さんの本が出た。それもノンフィクションで著名な、野村進さんによる大作である。『見事な生涯』とは、ずいぶん大きなタイトルだなと若干の驚きを覚えながら、本書を読み進めた。
死は決して“終わり”ではない。魂は永遠に生き続ける。この真実に目覚めれば、現世での生き方も、おのずと変わらざるをえない。私利私欲に走るのではなく、「人のために生きる」方向に転換していく。世の中全体も、争いのない世界へと変貌を遂げるだろう。
自分はそうしたことを、ひとりでも多くの人に伝えたくて、霊界研究の“受け売り”をしてきたにすぎないのだ……。
丹波はこの話を、たぶん数百回どころか、千回以上はしている。(中略)しかしそれは、無用な詮索を避けんがための方便だったのかもしれない。
目に入ったプロローグの記述から、すっと当時のある光景が蘇った。
(いきなりの私事で恐縮だが)私は丹波哲郎さんに会ったことがある。もう30年近くも前の話だ。私は当時、『VIEWS』という雑誌で連載されていた田原総一朗さんの対談連載の構成を担当していた。田原さんはアブラの乗り切った60歳前後、その大先輩にあたる丹波哲郎さんは70代、まだ30そこそこの駆け出しのフリーライターの私からすれば、まばゆいばかりの「大物共演」だった。この対談でも丹波さんは、腹の底から響いてくるような例のあの声で、「お決まりの方便」を、楽しそうに披露していた。
もう少しだけ、私事を続けさせてもらおう。
丹波には業界内でふたつの“伝説”があった。ひとつは「遅刻の常習犯」で、もうひとつはセリフを覚えずに現場入りすると言うものである。
お恥ずかしい話だが、この日私は遅刻した。正確に言えば(対談の)開始時間10分前には部屋に飛び込んだのだが、そのときにはすでにメンバーは揃っており、(3時間ぐらい遅刻することがあるらしいと全員が身構えていた)丹波さんは、「いやいや、私がこんなに早く来るというのは、まったくもってめずらしいことだ」と、対談用のソファに深くカラダを沈めながら、豪快に笑い飛ばしている最中だった。私は思いっきり汗をかいていた。
丹波さんほどの「大物」になると、ひと言で「どんな人?」などとは括れない。何時間か同席させていただいた印象も、ある意味「狐につままれている」ような印象で、とてもじゃないけど駆け出しの若造が総括できるような人物ではなかった。本書を読みながらそんな思いをじんわりと思い出していると、何気ないこんな記述に出会った。
「印象深いという出来事というのは特になく、いつも自然な感じでした。毎回ほとんどダジャレや冗談で楽しくやっていました。今でも丹波さんの名前を聞く度(たび)に、いつもとぼけて明るく笑っていた顔が思い出されます。楽しい時間を共有できたことは、本当に幸せなことだったと思っております」
丹波邸で数え切れないほどに雀卓を囲んだ作曲家・菊池俊輔さんが、著者の書面によるインタビューに応えた言葉だ。
まさに、そんな光景だった。この飄々とし、とぼけた佇まいの奥底を描き出すのは並大抵の作業ではない。幼少の頃、若手時代、テレビ界への転身と妻の病気、大物への階段を登った『007』の話、役者丹波の真髄『智恵子抄』と『人間革命』、名作『砂の器』、『日本沈没』、『八甲田山』、人気を決定づけた『キーハンター』、『Gメン’75』。胸踊らせる作品の数々に絡めながら、丹波哲郎の佇まいや生き方を丁寧に描いていく。丹波哲郎は大正11年生まれ。祖父や親とはまたひと味もふた味も違う「とっておきの」人生の大先輩として、その魅力を静かに紐解いていく。
第9章の「宿命の少女」と題された記述のあたりから様相が変わる。「スター・丹波哲郎」が、まるで「人間・丹波哲郎」に押しつぶされるように「人生」が加速していく。
冒頭に記したような「大霊界の人」としての丹波さんが世間に印象付けられ、また年とともにその存在の重さに拍車がかかり、誰もが深く突っ込まない、いわば「孤高の宣伝マン」が生まれていく。あるある、あったあった、などの懐かしさによる興奮は、440ページの大作の半ばを過ぎると、人間丹波を(図らずも)味わっていく興奮へと変わるのだ。
もちろん、詳細は本書に譲るが、ひとつだけ触れたい。
「なにしろ大我な心の持ち主で、どんな人とも分け隔てなく接し、『自分にかかわる人は一人残らず幸せにしたい』が口癖でした」
これは、「基本的にあの世や霊の存在は一切信じていない」40代後半の記者からの質問に対し、江原啓之(スピリチュアリスト)が返した丹波評であり、丹波への素朴な興味が湧いたきっかけとなったと著者自身も記した言葉である。
「大我」とは、「個人的見地を離れた自由な境地」を指す仏教語だ(『日本語大辞典』講談社)。霊やあの世の存在の解釈はそれぞれに委ねるが、当時の丹波の「自分にかかわる人は一人残らず幸せにしたい」との思いと、またそれを取り巻く時代の空気は、一考に値する。
先の30年前の「丹波・田原対談」の際、本筋の対談が一段落し、編集者やアンカーマンの私を交え、丹波さんを囲むように自然と生まれた雑談の輪があった。
その時、丹波さんはみんなに向かい、「ここでお会いできたのもなにかの縁だ。みなさんが三途の川を渡るときの水先案内人は、ぜひ私が務めましょう。ですから、安心して死後の世界においでください」と大きな声で言った。
私は(運良くというか、へんなタイミングというか)2週間ほど前に父親を亡くしていたというのもあり、なんだかものすごく感動してしまった。それは、あの丹波哲郎にこんなことを言われた、人にはない利得を得たというようなことではなく、なにかものすごく大きな存在に偶然お会いしたような、なんともいえない安心感を得たことを思い出す。
一瞬の幸せを感じたのである。
若いころから手鏡をつねに持ち歩き、ひまさえあれば、自分を映して見てきたものだが、長年の習慣もいつしかやめてしまった。(晩年の丹波への著者による描写)
この描写にハッとする。
本書では、「霊界を語るへんなおじいさん」というキャラクターで印象付けられていたバラエティ番組の時代、また体調を崩した最晩年の様子も丁寧に描かれる。
30年前、私の前に現れた大きな丹波さんは、いかにもおじいちゃん然とした白いズック靴を履いていた。自分の失態を大声で語り、周囲を煙に巻いた。
休日、本書で知った丹波さんの若き日の作品『たそがれ酒場』(東宝作品、監督・内田吐夢)を観た。丹波さんは、ものすごくかっこよかった。
ちゃんとかっこいいし、ちゃんとかっこわるかった人なんだと思った。
まさに「丹波哲郎 見事な生涯」である。(一部敬称略)
レビュアー
コラムニスト。1963年生。横浜市出身。『POPEYE』『BRUTUS』誌でエディターを務めた後、独立。フリー編集者として、雑誌の創刊や書籍の編集に関わる。現在は、新聞、雑誌等に、昭和の風俗や観光に関するコラムを寄稿している。主な著書に『ロックンロール・ダイエット』(中央公論新社、扶桑社文庫)、『車輪の上』(枻出版)、『大物講座』(講談社)など。座右の銘は「諸行無常」。筋トレとホッピーと瞑想ヨガの日々。全国スナック名称研究会主宰。日本民俗学会会員。