著者は聖職者の家庭で育ち、自身も牧師としての経験を持つ神学者(1976年生)。『抵抗権と人権の思想史』『人権思想とキリスト教』といった著作があり、本書ではさらに一歩踏み込んだテーマに挑んでいる。ヨーロッパのキリスト教信仰が育んできた人権意識が、明治維新後の日本社会に輸入されたとき、どのようにアレンジされ、結果としてどのような歪みを内包するようになったのか?というプロセスは、読んでいて非常に禍々しく興味深い。
1980年生まれの身としては、天皇/天皇制に対してはなんの思い入れもなく、『はだしのゲン』などに強く影響された少年時代もあったが、もはや「いてもいなくてもいいんじゃない」程度にしか思わない。が、本書を読むと、ある時代までの日本国民にとっては「大事な心のよりどころ」だったこと、あるいは「ファナティックな妄執」の対象だったことを思い知らされる。しかも、それは時の政権が仕向けたことでもあった。
大正末期から昭和初期にかけて、人々は自らの存在意義や権利の根拠を天皇に求めるようになり、天皇に基づく国民運動が盛んになりました。こうした動きは、政府が進めてきた臣民教育によって形成された土壌が育みました。しかし、その上に形成された国民は、政府が想定していなかった形で運動を展開しました。人々は天皇に神聖な意味を見出すことで、自らの正義をそこに重ね合わせ、運動を一層強めていったのです。その結果、このような動きは過剰なまでに徹底され、五・一五事件や二・二六事件といった急進的な行動へとつながっていきました。
江戸時代まで存在感が薄かった天皇は、幕末から明治にかけて政治の表舞台に登場します。その時代は国家の存続が危ぶまれる時期であり、日本を一つにまとめるために天皇の存在が重要視されました。この時期に用いられた言葉が「国体」でした。
話が先に進みすぎてしまったが、明治政府の天皇ヨイショは江戸時代末期にまで遡ることができる。“徳川様”に代わる都合のいいシンボルとして、天皇はトップの座に返り咲く。
天皇という存在は庶民にほとんど認知されておらず、実際の忠誠心は藩主や徳川幕府に向けられていました。ところが、幕府の存在を否定して、文字通り「一君万民」の国家体制を主張する人々が現れます。その代表的な人物が會澤から影響を受けた吉田松陰(よしだしょういん)です。吉田松陰が教えた松下村塾(しょうかそんじゅく)で学んだ塾生の中から、高杉晋作や伊藤博文など明治維新で活躍した志士が輩出されます。彼らが天皇を中心とする国体を確立していくのです。
これまで見てきたように、日本は「国体」や「一君万民」という文言を用いなくなりましたが、本質的な日本的要素は精神的に継続しています。こうした構造は、憲法や制度といった政治的手続きの背後に組み込まれているため、私たち国民が自らを「天皇の赤子」と自覚することはほとんどありません。しかし、国家的な儀礼や行事を振り返れば、国民を結合する精神構造は常に天皇を中心とする形式になっていることに気づきます。こうした点に注目すると、戦前と戦後は単純に断絶しているのではなく、むしろ深いところで連続していると理解することができるのです。
天皇は政府と違って、なぜか市民の同情を集めやすい存在でもあった。なんなら「反政府のシンボル」や「庶民の味方」とすら捉えられていたフシもある。
ここで重要なのは、不平等に抗議する庶民が政府を批判する一方で、天皇を非難しなかったことです。これは、彼らが天皇に特別な敬愛の念を抱いていたからです。たとえば、明治期の賤民出身者は、身分制度を廃止してくれた天皇に感謝の意を抱いていました。むしろ、実際には維新(平等)が完全には実現していないことに対する不満を持ち、天皇を根拠として、不正を是正しようと政府への批判運動を展開していったのです。
大日本帝国憲法制定の過程で、森有礼が「臣民権利義務」という表現を「臣民の分際」に改めるべきだと主張したのです。
(中略)
森の発言が示しているのは、臣民が天皇に従属する存在である以上、天皇に対して権利を主張するという発想そのものが成立しないという認識です。このため彼は、「臣民権利義務」ではなく「臣民の分際」と表現すべきだと提案しました。この案は採用されませんでしたが、尾佐竹猛は後にこれを知り、「誠に結構なことを聞いた」と評価しています。







