成人するまで死ねない!
「でもな、おまえが今死んだとするやろ。その場合は、地獄にも天国にも行けへんのや。おまえは子どもやから、三途の川をよう渡らん。お父さんか、お母さんが死ぬまで、賽(さい)の河原っちゅう寂しいところで待ち続けなあかん」
いつになるか分からない親の死を、河原で待つ。それだけでも充分に怖いのだが……、
「賽の河原で、おまえは〈ひとつ積んでは父のため〜、ふたつ積んでは母のため〜〉って歌いながら、石を積むんや。そうやって石を積んどるとな、鬼がやって来てな、『ガキめ、辛気臭いわっ!』って積んだ石を金棒で突き崩すんや。それをな、延々と繰り返すんや。お父さんか、お母さんが死ぬまで」
自分が死んだ日には、すぐにでも父か母に死んでいただきたい。そう思った。
「賽の河原にはな、そういう子どもがいっぱいおるんや。みんなシクシク泣いとる。そんな子どもを『かわいそうや』って救ってくれるのが、地蔵さんや。そやから、お地蔵さんは子どもの仏さんやって言われるんや。お地蔵さんには手を合わせろ。大切にせぇ」
この話と賽の河原のイメージは、子供心にかなり強烈に焼き付いた。「成人するまで絶対死なない!」と、マジで思ったし、お地蔵さんも拝んだ。それはトラウマ、いや父の呪縛だと思うが、それから解放されたのは思春期。ジョン・レノンの「イマジン」を聞いたから。天国はないと歌う彼を信じ、それなら地獄もないなと思った。
お地蔵さんは仏様であるのだから、お地蔵さんを拝むのは仏教的な信仰活動のはずだけど、存在が身近すぎてそういう宗教っぽさがない。正月の初詣とか、お盆の墓参りに近い。観光地の土産物店を覗けば、かわいいお地蔵さんのチャームを売っていたりする(なぜか日本全国で)。このなんだか不思議な仏様が、“いかに日本人に浸透したのか?”を教えてくれるのが、本書である。
地獄で仏、もしくは地獄の地蔵
地蔵はもともと仏教の菩薩(ぼさつ)、地蔵菩薩である。つまり、観音や勢至や文殊などと同格の仏なのである。ただ、菩薩のなかでも地蔵はかなり特異な菩薩で、ほかの菩薩たちがさまざまな装身具で身を飾っているのに対して、地蔵は僧侶の姿、すなわち僧形(そうぎょう)をしていて、身を飾ることをしない。
この身を飾らないという点は釈迦や阿弥陀や薬師といった、菩薩より上級の如来たちと同じである。僧形なのは衆生済度(しゅじょうさいど)、すなわち、人々の救済を容易にするためといわれている。
地蔵菩薩の起源をたどるとインドの地母神のようだが、きちんと成立したのは中国。そこから奈良時代に日本に伝わり、平安時代の中期以降に地蔵信仰が広まる。日本史の授業を思い出そう。時代は末法思想が大流行。釈迦の入滅から2000年、「末法の世が到来ぃ」「世の中が乱れるぞぉ」「阿弥陀さまにすがれぇ」というデスな世の中。しかし阿弥陀如来に救済され、極楽往生するには造寺、造塔など(金をかけて)功徳を積まねばならぬ。それができぬ者は堕地獄を免れない(これを地獄必定観という)。そこで地蔵菩薩は「無仏世界の救主」「六道能化の菩薩」として注目される。つまり「地獄で仏」だ。地蔵菩薩の主戦場は、地獄なのだ。
地獄での地蔵菩薩の活動は徹底している。堕地獄者を救うために冥官(閻魔大王に仕える役人。漫画『鬼灯の冷徹』を読もう!)に訴願(不服申立て)して蘇生させたり、罪人に代わって地獄の責め苦を受けたりする。阿弥陀さまに導かれ極楽に行くことなど望むべくもない人々にとって、地獄の救済者である地蔵菩薩は、すがりたくなる仏様だったに違いない。そういう人々の思いが強すぎて、地蔵菩薩は地獄だけでなく、この世(=娑婆)でも活躍し始める。これには説話がたくさんあるのだが(パッと思いつくのは「かさじぞう」だ)、とびきり面白いのが宇治拾遺物語のこんな話だ。
丹後の国に、地蔵が明け方に歩いているという話を聞いて、どうしても会いたいという年寄りの尼さんがいた。それを知った博打打ちが、尼さんの着物と引き換えに案内を申し出る。彼が連れて行ったのは「ぢざう」という名の子どもがいる知り合いの家だった。そこに子どもが帰ってきて、尼が伏し拝むと、
楉(すわえ、木の細枝)を持て遊びけるままに来たりけるが、その楉して手すさびのやうに額をかけば、額より顔の上まで裂けぬ。裂けたる中よりえもいはずめでたき地蔵の御顔
小枝で顔を掻いたら、額からパッカーンと割れてお地蔵さまの顔が現れる! すごいインパクト。
賽の河原の救済者
さらにお地蔵さまほど、さまざまな名前を付けられる仏様はいない。開運延命地蔵、恋地蔵、棘(と)げ抜き地蔵などは、まだおとなしいほうで、粟の草取り地蔵に夜泣き地蔵、ケダニ地蔵、腰痛地蔵など、人のありとあらゆる要望に応えるお地蔵さまが存在する(本書には、およそ5ページにわたってぎっしり名前が並ぶ!)。正直「人は、仏様との距離感において超えちゃいけない一線を超えた」と思うほど、要望が過剰だ。そこまで慕われる、すがられる仏様。地獄で罪人を救う地蔵菩薩という仏様だったのが、やがて娑婆の人間を救ったりして、さらに子どもを救うお地蔵さんとなった。そして……
宗教の世俗化、「憂き世」から「浮き世」への大きな時代転換を背景に、おもな活動の場を現世とするようになり、人びとのさまざまな願いに応じて多様な現世利益者になっていくのである。
地獄はあると考えたほうが、人は謙虚になれるけれど、功徳を積むほどには高潔には生きられない。末法思想の時代から現在まで、そんな凡庸な人々の思いに沿い続けてくれているのが地蔵菩薩であり、お地蔵さまなのだ。道端のお地蔵さんを見たら、やっぱり足を止めて手を合わせておくべきじゃないかと、本書を読んで思った。








