100年前の日本はほぼ異世界だった
今も人は死ぬし、子供も生まれる。ただ、その現場はだいたいが病院だ。しかし今から100年前、人は家で死に、家で生まれるものだった。かつて日本人がどうやって死んだ人を送り、どうやって新しい生を迎えたかの体験談は、今とあまりにかけ離れていて、まるで異世界譚のように想像力を掻き立ててくれる。同時に生死の現場が家から病院へ移ったことがどれだけ日本人の死生観を変えたのか、知的好奇心が溢れてくるだろう。
人が死んだら葬式を執り行う。現在であれば、病院から家か葬祭場に遺体を搬送し、納棺して通夜・告別式を行って火葬する。しかし、おじいちゃんおばあちゃんが語る明治末期から大正期の「死」の儀式は、もっと工程が細分化されていて、現在とは比べものにならないくらいたくさんの決まり事があった。たとえば、死んだ人の体を拭いてきれいにする「湯灌(ゆかん)」という作業。今は葬儀社のスタッフが行い、形式的に親族がアルコールで少し拭く事が多い。この湯灌について、聞き取りに応じた佐藤春代さんはこう説明する。
「お寺さんに連絡して、来てもらい枕経をあげてもらいました。その後で親族の者で湯灌をしました。湯灌は仏壇の前の畳二枚を上げてその上に盥(たらい)をおいてみんなで体を少しずつ洗ったのです。湯灌の湯は、床板をはぐって床の下に捨てました。それは見て知っておりました」
なにそれ! まるで諸星大二郎の漫画じゃん!
そして、この湯灌が行われたのは決まって家の奥納戸だったという。奥納戸ってどこよ?

これ、実家の間取りじゃん!
私の実家は広島県ではないが、そこそこの旧家。先代が増改築した部分を削れば、この間取りにほぼ符合する。そして奥納戸に当たる部屋は日の当たらない部屋で、隣が仏間ということもあり子供心に怖い印象を持っていた。きっと、私のひいじいさん、ひいばあさんが死んだときは奥納戸で湯灌が行われ、湯を床下に捨てたかもしれない。突然結びついた家の間取りと、立ち浮かぶご先祖さんの営みにクラクラした。
そのほかにも、棺桶に入れるために遺体を折り曲げ紐で括(くく)る「角寄せ」、棺作り、親戚や縁者への連絡(電話のない時代なので大変だ)、焼場まで遺体を運ぶ「野辺送り」など、おじいちゃんおばあちゃんたちは細部までいきいきと語っている。なかでも「焼場」の話は抜群に面白い。
現在の火葬場はガスを使用してきれいに骨だけになるが、かつての焼場は土を掘り込んで、まわりを石で組んだ質素なものだった。燃料は薪や藁。きれいに焼くのは非常に難しく、熟練の技が必要だった。この仕事を経験した杉田五蔵さんによると、薪の並べ方や棺桶の置き方にもコツがあり、内臓が焼けやすいように、内臓を下向きに伏せるなどするという。そして最後に
その上を濡れ筵(むしろ)で密閉します。炎が外へ燃え出たら、薪と棺桶だけが燃えて、遺体は焼けずにそのまま残ってしまうからです。そうならないために、濡れ筵で炎を外に出さないようにして、中を蒸し焼きの状態にするのです。これには、かなりの経験がいります。地域の長老が指揮して、翌日の朝までに無事焼き上げるのが、講中(こうじゅう)の努めでした。
死を知ってから生を知る
つまり「苦味(苦)」を体験して「甘(楽)」にありつくという、生き方の象徴的な体験である。子どもは成長の中で、楽しいこと、面白いこと、楽なことだけでなく、耐えねばならない苦しいこと、悲しいこと、厳しいことにも直面せねばならない。それが昔から、生まれて間なしに行う「五香」という、育児法の中には組み込まれていて、見事に地域の教育力として生かされていたのである。
死についての体験談が、どこか開放的でユーモラスなものが多いのに比べ、結婚や出産、子育てといった生についての体験談にはどこか暗さがつきまとう。女性の人権もへったくれもない婚姻や、「七歳までは神のうち」という言葉に代表される乳幼児の死亡率の高さなど、その背景にはどうしようもない「貧しさ」がある。それでも生きていくために「家」や「村」といった共同体が必要とされ、その結びつきを強くするための文化が生まれたのだ。それを振り返って否定するのも、守るべき家族のあり方などと称揚するのも的外れ。「今は違う」と切り離して考えるのもご先祖様に不遜だ。ハードモードの人生をご先祖様がどう生きたかを想像し、根っこの部分で100年前と現在が地続きであることを知ることは、とても大切なことじゃないだろうか。
人は生まれて死んでいくから、「生」を見て考え、その後で「死」を見ていくものだと、なんとなく思っていたという著者が、本書を「生と死の民俗」ではなく「死と生の民俗」とした理由を、こう書いている。
自分の人生での順序から言えば、「生」に出会うことから始まるには違いないが、自分が生まれたことについては、自覚的にはとらえていない。体験的には他者の「死」に出会うことから始まり、やがて、自分の子どもや、身近な者の誕生に出くわし、「生」を自覚的にとらえている。「死」との出会いを土台にして、「生」をよりよく生きようと自覚するようになった。それが、多くの高齢者の歩んだ道のように思えた。