菊と刀、そして鍬
死生観を知ることはその民族の考え方を知るために、もっとも有効な筋道です。日本が第2次世界大戦を戦っていたころ、アメリカの文化人類学者が、幾多の資料にあたり、日本人について画期的な考究を成しました。
学者の名前はルース・ベネディクト。彼女が描いた日本人像は、『菊と刀』という書物になって戦後すぐに出版されました。この本は現在でも日本人論の基本的著作とされ、今なお版を重ねる超ロングセラーになっています。
しかし、本書の著者・五来重先生は『菊と刀』に飽き足らないものを感じていたようです。
従来、日本人の死生観というと、すぐハラキリが出てきたり、殉死(じゅんし)が出てきたり、『葉隠(はがくれ)』が出てきたりというような、武士道的死生観というものに限定しているように思うのです。これは日本人をいわゆる「菊と刀」だけできっているようなものです。菊に象徴された貴族文化、王朝文化もたしかにりっぱなものだと思いますし、また武家文化というものも、いわゆる騎士道的な、世界に誇るべきものだと思いますが、もう一つひじょうに大きなものを従来の日本人論、あるいは日本人の精神構造のなかで残していると思います。それは庶民の持っている思想、宗教、あるいは人生観、死生観のようなものであろうと思います。それで私は菊と刀と鍬と並べて、やはり鍬(くわ)も入れていただかないと日本人論にならないのではないか、その鍬を持っている人々の、死生観はいったいどういうものがあるかということを考えてみたいわけです。
江戸時代、支配階級である武士の身分を持つ者は、全体の2割程度だったといわれています。菊と刀について述べるだけでは、日本人について述べたことにならない。そこに鍬をくわえなければならないのだ、というのはきわめて当然の考えであると言えるでしょう。
本書『日本人の死生観』は、主として鍬の――もっといえば日本人全体の――考え方を述べたものです。ベネディクトがおこなったような文字資料による解析ばかりでなく、五来先生がじっさいに全国を歩いて記した論考をまとめたものになっています。記事のほとんどは、1970年代に記されました。
死者を見た学者
もっとも、現在では本書と同じタイトルを冠した本はいくつもあります。鍬を入れて考えなきゃ意味ないよ、とは多くの人が考えついたことなのかもしれません。
言葉をかえれば、これはとてもありふれた思考方法でもあるわけです。ただ死生観を知るだけなら、本書よりずっと適当なものがあるかもしれません。
自分は不勉強ゆえ、それらすべてに目を通したわけではありません。しかし、それでも本書を強くすすめたいと考えています。
なぜか。
著者が「あの世」を幻視した人だからです。
五来先生が1970年代にものした本に、『熊野詣』という書物があります。熊野古道は現在では世界遺産になっていますから、だいぶ歩きやすくなっていると思われますが、五来先生が行かれたころは、まさに知る人ぞ知るものでした。観光資源になっていませんから、先生は案内の人をともなって歩かれています。
その途上、先生は何人もの人と行き交いました。その中には、死んだはずのあの人もいました。つまり、行き交ったのはみな……。
熊野の怪異である。『熊野詣』はそう述べています。
この記述に接したときは、ずいぶん驚きました。
五来先生は学者ですから、『熊野詣』も本書と同じく、学究的手法によって記されています。怪異に出会っても、それをもとに「死後の世界はある!」(by 丹波哲郎)などとは主張されてはいません。分量にして数行、じつにそっけなく、簡単にふれられているのみです。まるで、「道にカラスがいる」と表現するように、霊を描いています。自分の知るかぎり、形而上のものをこれほど当たり前に書いた例は知りません。
そのときに思いました。ああ、この人は信用できる。
小林秀雄が柳田國男にふれ、柳田は素晴らしいが弟子はくそったれだと語っていました(修辞は筆者による)。それと同じようなことを感じたということかもしれません。
死生観だって?
そんなの、あの世を見た人しか書けっこないじゃないか!
死生観はわたしたちの生活を彩っている
わたしたちの周囲は、「死生観」によって構築されたものがずいぶんあります。
たとえば、東京都千代田区1丁目、皇居(江戸城)が見えるところに、平安時代に乱を起こした平将門の首塚があります。東京とは、将門の怨霊を鎮めるためにつくられた都市なのです。
これをSF的に表現したのが、映画化され大ブームとなった『帝都物語』でした。
本書は、こうしたものが各地にあり、われわれが日常として受けとめているものも、そこから発したものがとても多いことを述べています。
東北地方には、「剣舞(けんばい)」という民俗芸能がたくさんあります。とくに岩手県下に多い。鎮魂の、圧えつける呪術的動作に、反閇(へんばい)という足踏みの仕方があります。この足踏みをするということは、マジカルステップといったらいいでしょうか、荒れすさぶ霊魂を圧えて追いだす力があると信じられていました。古くは「だだ」と呼んで「地だんだを踏む」とか「だだをこねる」という熟語になったのですが、われわれは犬に吠えられたとき、自然にこの動作をします。
この呪的足踏みが、踊りの基本的な型になって歌舞伎の「六方を踏む」という型になりました。顔に隈取(くまどり)をつける荒事(あらごと)ですと、花道の七三のところで、必ずこれを踏んで見得を切ることになっています。原始的な宗教舞踊の鎮魂の、マジカルステップがそこに残っています。
これはほんの一例で、本書は多くのものが「日本人の死生観」に根ざしたものであることを語っています。読者はきっと、へーそうだったのかと思う瞬間があることでしょう。
同時に、こうも思うはずです。
こと死(葬礼)に関しては、われわれはずいぶん窮屈を強いられている。むかしの人のほうがずっと自由に死ねたのだ。
わたしたちはたしかに、「日本人の死生観」にはない方法で、生涯を終えることを余儀なくされています。それを知るだけでも、本書の値は千金であると言えるでしょう。
レビュアー
早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。
https://hon-yak.net/