本書は Alain:Mars ou la guerre jugée『マルスあるいは裁かれた戦争』(一九三六年)の抄訳である。原著には、第一次大戦後間もなく発表された、序文および九十三章からなる一九二一年版と、第二次大戦の足音の高まりを聞きながら、二一年版に新たに二十章を追加して出版された、一九三六年版がある。
訳者である白井成雄氏によれば、本書は1936年版の「全百十三章から五十一章を採用」したものだ。章を選ぶ際には、「第一次大戦当時の時事的予備知識が余りなくても素直に読める章、戦争に走る人間の心理・情念が直接の主題になっている章をなるべく取り上げた」という。本書の原本は1986年に小沢書店より刊行された。今回の文庫化を機に、白井氏の遺した赤字をもとに、一部訳文は改められている。
また白井氏は訳者あとがきで、本書について、こう触れている。
一読されれば解るごとく、本書は第一次大戦に参戦したアランが、自分の体験を基にして一市民の立場から記した反戦論である。当時の彼の体験の内には、核兵器の存在はもちろんのこと、前線・銃後の区別なく市民・婦女子すべてを捲きこんだ第二次大戦も存在していなかった。それゆえ、彼の言葉の端々にはやや時代のずれを感じさせる点もなくはない。しかし軍事技術が如何に変遷を遂げようと、自らの手に武器を取り、あるいは他人の手に武器を取らせて相争う人間の心理、生理、その身体構造には、歴史を超えて変らない面が大きい。
中でも強く惹かれたのが、「主権者」の章だった。
政治は群衆の迷蒙でしかなく、個人は奴隷にすぎないのか。そうでないとすれば、世論の形成にあたって、個人が自分一人で、自分の力量で判断を下すべき瞬間があるはずだ。それも、皆と同じ考えしかもてない狂信家連の方法に依ってではなく、孤独と自由を意志的に守る人間の存在を前提とする、あの真に科学的な方法に依ってである。要するに、世論が戦争を可とするか否かを知る前に、自分が戦争を可とするか否かを知らねばならない。その際、私自身の思想と感情以外に、私を左右する人為的事象は存在しない。私は主権者なのだ。私が将来について何を予想するかではなく、何を望むかが問題なのだ。純粋に倫理的な問題なのである。これを避けて通ることはできない。
そしてアランは「判断」の章で、次のように言葉を重ねている。
現実ではなく、理想が問題となる時は、このように振舞わねばならない。精神的譲歩は一歩たりともせず、固く戦争を否定せよ。戦前も、戦中も、戦後もそうすべきだ。なぜなら、人々の賛同こそ戦争に生命を与えるものであることを、君は良く承知しているではないか。何よりもまず戦争に養分を与えないことだ。








