ドローンが一変させた戦場と、変わらない戦術
突撃部隊は白兵戦に辿り着く前に、ドローン攻撃や迫撃砲などで5割の兵士が殺傷される。
8月半ばに入隊して、たった2ヵ月で古株扱いとなった。基地にいる兵士の半分以上が自分より後輩で、その事実が戦闘の激しさを物語っていた。それでも、ロシア軍は攻撃の手をひと時も休めなかった。
兵士は高給取りだが、職業軍人と恋愛関係を築きたいロシア人女性は少ない。僕がともに過ごした女性とも、休暇中だけの関係になった。
その一方で、金子氏は市民権を持たないゆえに銀行口座を開設するにもゴタゴタし、ロシアから帰国するとき、ポケットに残っていた一発の銃弾のせいで、空港で足止めを食らう。そうしたトラブルから、銀行員や空港職員といったロシアの一般国民は、戦時であっても戦争と一定の距離を置いて正常に業務をこなし、生活していることが透けて見える。事実、モスクワ住民の間では、戦争には無関心の人が多く、自分たちの経済活動が最優先で、我関せずという人たちが圧倒的多数を占めているという。第二次世界大戦の日独伊のような国民の熱狂がなくとも、戦争は遂行される。それが現在の戦争の形なのかもしれない。
なぜロシア軍なのか? なぜ戦場に向かうのか?
しかし、なぜ彼が「ロシア軍の日本人兵士」になったのか、まったくもって分からない。
僕の生き方に共感できない人が大半だろう。「ロシアに加担した人間の言うことなど聞くべきではない」という批判も起こると思う。この本で述べる通り、僕は特異な人生を送ってきた。多くの人とは、感覚も考え方も生き方も違うと思っている。
では、何のために生きているのか。実はただ、生存本能に従って生きているだけなのではないか。だとしたら、「生」を最も感じられる場所に身を投じたい。理解し難いかもしれないが、熟慮の末に僕が導いた結論が「戦場に行く」ということだった。
金子氏にとって生存本能に従うことは、金と時間を使い「退屈」に生きることなのだろう。それが嫌で、まったく異なる「生」を感じたいと渇望する。彼は〈死ぬ間際、生存本能に打ち勝ったと神様を笑ってやろう〉と決意して戦場を目指す。しかし、戦場には生存本能しかなく、死は生存本能の敗北だ。金子氏が「退屈」に打ち勝つ先にあるのは「生」ではなく「死」なのだ。と、ここまで書いて「全部、矛盾している」と思う。もっと単純に「戦場という賭場で、自分の命を掛金にするギャンブラーの心情に近いのではないか……」なんてことも考えたが、そういう“分かったふうな理解”は、たぶんゴミだ。
金子氏は、ロシアに入国してロシア人とふれあい、その情の厚さに触れて、国のためではなくこの人たちのために戦いたいと思う。「守りたい人のために戦う」というと、なんだかロボットアニメの主人公のセリフみたいで分かりやすい。一方で、ウクライナ軍にも日本人兵士がいる(いた)と聞く。日本での報道を見聞きする限りにおいて、ウクライナ軍に志願する日本人兵士の理屈も分かる。
いや、分かるのか?
守りたい人のために戦うとか、領土を守る大義とか、歴史的正当性とかを?
金子氏は、あるとき外国人義勇兵から「ヒズボラに入りませんか?」と勧誘される。しかし、彼はロシアの仲間や友人を見捨てることはできない。馴染みのある町の人々が犠牲になっているさまを見過ごせない。そして「ヒズボラに入れば、ただの戦争屋になってしまう」と言うが、金子氏はロシアから給与と報奨金をもらっている。義勇兵とは自らの自由意志で戦闘に参加する兵士を指し、金銭的な見返りを求めないものとされる。金銭的な契約で結ばれた兵士は傭兵だ。戦争屋、義勇兵、志願兵、傭兵、そこに差があるのか、ないのか、よく分からない。どちらの軍に所属していたとしても、銃口の先にいる敵(だとされる存在)を殺すことに、理由や大義、正当性を持ち出して意味があるのか、ないのか、よく分からない。
死にたくないなら殺す——。敵に対しても仲間に対しても、だ。戦地で戦い続けるほど、戦争は本当にクソだと心から思う。終戦して、この負の連鎖が終わる日を毎日夢見た。この生き地獄から早く解放されるなら、戦死しても構わない。地獄のベルゴロドで、そんな思いまで抱くようになった。








