本書がおもに依拠する資料は、毎日新聞大阪本社(旧・大阪毎日=以下、「大毎(だいまい)」と略)が秘蔵してきた「毎日戦中写真」である。日本では、毎日戦中写真や、朝日新聞大阪本社が所蔵する「富士倉庫資料」といった戦前・戦中の報道写真群は、かけがえのない時代の遺産として現在まで残っている。
特派員といっても、支局などに派遣される者と、発生した事件取材のために一時的に派遣される者がいた。いずれにせよ、一般に記事を書く者や報道写真を撮るカメラマンと見なされがちであるが、じつはそこに焦点をあてるだけでは見えてこないものが多々ある。
たとえば、無線で伝達する電信課員、製版や組版を担当する工務部員、記者と本社との連絡をおこなう渉外部員、新聞社どうしをつなぐ連絡部員、記事や写真を前線から移送する連絡員、記者たちの空撮や彼らの移動を担う航空部員、販売普及を担当する業務部員、ときには戦跡を自ら見て回る会長や社長を含めて、話を進めていきたい。これら新聞事業にかかわるすべての人びとを対象に、戦争と報道との関係を紐解き、現在の時代を生きる読者に提示したいと思っている。
日本国内での熱狂的反応は新聞の売り上げ増大に直結し、「好景気到来」「領土拡大」などのイメージとセットで開戦に好意的な世論を作り上げていく。その強力な宣伝効果を、国や軍も味方につけた。やがて"公正中立なジャーナリズム"というような考えはどんどん失われていくが、それでも現場で体を張る人々の"記者魂"やプロ意識は、当時の報道写真に迫真の緊張感とともに刻み込まれている。本書のカバー帯を飾る、上海戦線での突撃シーンもそのひとつだ。



戦争なのだから当然と言えば当然かもしれないが、不慣れな外国での戦場取材のなかで、報道人たちも兵士同様、次々と命を落としていく(特に、病死の圧倒的な多さが印象深い)。軍人でも警察官でもない、その多くは一介の会社員だった彼らにとって、それは本当に「覚悟するべき運命」だったのだろうか?
実際、新聞がいつ廃刊に追い込まれるかわからない時代、戦意高揚を煽る時代であった。社賓の徳富蘇峰、東日編集総務の上原虎重、東日東亜部長の吉岡文六など社内主戦派が幅をきかせる時代でもあった。
(中略)
しかし、彼らが守りつづけた新聞というメディアが、「軍部の一機関紙」(楠山義太郎の弁)に転換したことも否定できない事実であった。その結果、多くの社員が亡くなった。このことは、社葬や告別式で彼ら首脳陣がよく使っていた「遺憾」や「残念」のひと言ではすまされない悲劇であった。
1944年の段階で、職員たちはマニラ残留組、軍司令部と行動をともにするバギオ北上組などに分かれるが、翌年2月には米軍がマニラに侵攻。結局は全員がフィリピン各地を彷徨することになる。途中、南條真一編集局長を中心としたマニラ残留組は、移動先でガリ版刷りの新聞発行を開始。まるで美談のように聞こえるかもしれないが、現実にはより切実な“生存をかけた”事情があった。
南條らは、イポの洞窟で同盟や読売の報道班員と共に、二月三日にザラ紙両面にガリ版刷りの陣中新聞「神州毎日」の発行を始めた。
(中略)
発行部数は、約三五〇部。約三ヵ月の間、全部で一〇〇号近くが発行された。新聞の発行は、軍隊と行動を共にしながらも新聞人としての自覚を維持するためだけでなく、部隊内でも兵士とは違った報道陣という身分で扱われた。陣中新聞の発行は、ある種の現実的な特権を維持するための存在意義でもあった。
本書はまた、戦争特派員たちが「写さなかったもの」「捉えなかった事実」についても言及する。南京大虐殺の記録はなぜ残っていないのか。占領下の被支配民の痛ましい表情が捉えられていないのはなぜか。そして、飢餓に苦しむ日本軍兵士の写真もほとんど存在しないのはなぜか。
端的に言えば、多くの場合は「そもそも撮影されていなかった」からだ。彼らが社命を背負って行動している以上、当局に「掲載不許可」のスタンプを押されることがわかっているものに、わざわざカメラを向ける理由はなかった。
戦時期には、写真部員や記者も、もちろん検閲を想定して撮影に挑んでいた。また、特派員の取材は、基本的にすべて社命によるものであって、今日のカメラマンと比較できるような自由さなどはなかった。本書で、カメラマンではなく、写真部員と表記する理由も、そこにある。
軍に随行する特派員は、部隊との関係を維持するためにも、警告を受けかねない写真を撮影することには慎重であった。それでもシャッターを切りたくなる場面に遭遇することはあったわけである。

軍の壊滅を伴う戦闘の苛烈な実態や、玉砕に至る悲劇的な光景、ましてや飢餓に苦しむ姿などは、一切写真に残されていない。
いうまでもなく、そうした写真は軍の検閲により「不許可」とされる対象であった。また、そもそも玉砕の可能性があるような最前線の島々には、従軍記者の派遣自体が軍にとって認められなかったのである。結果として、毎日戦中写真においては、激戦地における実際の戦闘や、玉砕後の島の状況を視覚的に捉えたものは存在しない。
太平洋戦争が起こると、新聞社は軍部への忖度をはかる機関になったというよりも、むしろ軍部と一体化した広報宣伝機関になったというほうが正しい。
戦後になっても、そのことを認めない新聞社がどれほど多いことか。新聞社の社会的責任はきわめて重いのである。