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2025.08.14

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【秘蔵写真が明かす真実】日中戦争から太平洋戦争……戦争特派員はどう生き抜いたのか?

そのとき戦場にいたのは、兵士や軍人だけではなかった。日本から海外各地に派遣された“戦争特派員”たちは、そこで何を見つめ、そして何を伝えなかったのか。本書は現存する貴重な資料をもとに、日中戦争の始まりから太平洋戦争の終わりまでを、報道人を中心に見つめた「もうひとつの戦史」である。まさしく戦後80年という節目に相応しい必読の1冊といえよう。
本書がおもに依拠する資料は、毎日新聞大阪本社(旧・大阪毎日=以下、「大毎(だいまい)」と略)が秘蔵してきた「毎日戦中写真」である。日本では、毎日戦中写真や、朝日新聞大阪本社が所蔵する「富士倉庫資料」といった戦前・戦中の報道写真群は、かけがえのない時代の遺産として現在まで残っている。
日本の新聞社や通信社の多くは、空襲や廃棄命令、自主焼却処分、GHQによる接収といった要因により、戦時中の写真を残せなかった。そのうち、わずかに残ったアーカイブのひとつ「毎日戦中写真」から、本書はアジア各国に飛んだ特派員たちの姿を浮き彫りにする。そこには現場記者だけではなく、さまざまな役職や立場の人々も多く含まれていたことを本書は詳らかにする。
特派員といっても、支局などに派遣される者と、発生した事件取材のために一時的に派遣される者がいた。いずれにせよ、一般に記事を書く者や報道写真を撮るカメラマンと見なされがちであるが、じつはそこに焦点をあてるだけでは見えてこないものが多々ある。
たとえば、無線で伝達する電信課員、製版や組版を担当する工務部員、記者と本社との連絡をおこなう渉外部員、新聞社どうしをつなぐ連絡部員、記事や写真を前線から移送する連絡員、記者たちの空撮や彼らの移動を担う航空部員、販売普及を担当する業務部員、ときには戦跡を自ら見て回る会長や社長を含めて、話を進めていきたい。これら新聞事業にかかわるすべての人びとを対象に、戦争と報道との関係を紐解き、現在の時代を生きる読者に提示したいと思っている。
1945年8月15日の「終戦」に至るまでの長い物語の起点をいつと捉えるかは、さまざまな意見があるだろう。少なくとも日本の新聞各紙にとって大きな発火点となったのは、1937年7月7日に北京郊外で発生した「盧溝橋事件」だった。日中戦争の幕開けとなったこの武力衝突事件をきっかけに、報道競争は過熱し、各社から一斉に報道人が派遣される。

日本国内での熱狂的反応は新聞の売り上げ増大に直結し、「好景気到来」「領土拡大」などのイメージとセットで開戦に好意的な世論を作り上げていく。その強力な宣伝効果を、国や軍も味方につけた。やがて"公正中立なジャーナリズム"というような考えはどんどん失われていくが、それでも現場で体を張る人々の"記者魂"やプロ意識は、当時の報道写真に迫真の緊張感とともに刻み込まれている。本書のカバー帯を飾る、上海戦線での突撃シーンもそのひとつだ。
一方、前線の兵士同様に、報道関係者にも犠牲はつきものだった。天津市局の連絡員だった毛利文男少年(当時15歳)は、1937年10月、桑園駅停車中の貨車で中国軍の包囲攻撃に遭い、腹部に銃創を受ける。下の写真は、彼が滄州の野戦病院で亡くなる前に撮影された。
その後、日中戦争は拡大の一途をたどり、特派員たちの派遣先も中国全土へと広がっていく。1940年2月、孫文や汪兆銘とも親交があったという編集主幹・平川清風の死を悼む集まりが、五原県の野戦通信局で行われた。五原県は、現在の中華人民共和国モンゴル自治区バヤンノール市に位置する、零下40度にもなる極寒の地である。下の集合写真は、キャプションを読めばわかるとおり、さまざまな意味で厳しい環境を物語る。記者たちの表情も、さながら歴戦のベテラン兵士のようだ。
そして、1941年12月8日、いよいよ太平洋戦争の火蓋が切られる。日本軍がマレー作戦により東南アジア一帯を占領すると、当然のごとく特派員の拠点も各地に設けられた。占領地での新聞発行は、地元住民の対日感情悪化を抑え、皇民化教育の手段としても有効であるという軍部の判断で、各地で行われるようになったという。

戦争なのだから当然と言えば当然かもしれないが、不慣れな外国での戦場取材のなかで、報道人たちも兵士同様、次々と命を落としていく(特に、病死の圧倒的な多さが印象深い)。軍人でも警察官でもない、その多くは一介の会社員だった彼らにとって、それは本当に「覚悟するべき運命」だったのだろうか?
実際、新聞がいつ廃刊に追い込まれるかわからない時代、戦意高揚を煽る時代であった。社賓の徳富蘇峰、東日編集総務の上原虎重、東日東亜部長の吉岡文六など社内主戦派が幅をきかせる時代でもあった。
(中略)
しかし、彼らが守りつづけた新聞というメディアが、「軍部の一機関紙」(楠山義太郎の弁)に転換したことも否定できない事実であった。その結果、多くの社員が亡くなった。このことは、社葬や告別式で彼ら首脳陣がよく使っていた「遺憾」や「残念」のひと言ではすまされない悲劇であった。
フィリピンで数ヵ国語の新聞発行業務に携わった「マニラ新聞社」の人々の運命は、ひときわ壮絶な印象を与える。一時期は「毎日新聞社からの出向社員162人に加え、現地採用のフィリピン人などを合わせて2000人を超える」大所帯だったというが、やがて彼らも例外なく日本軍の大敗に巻き込まれていく。

1944年の段階で、職員たちはマニラ残留組、軍司令部と行動をともにするバギオ北上組などに分かれるが、翌年2月には米軍がマニラに侵攻。結局は全員がフィリピン各地を彷徨することになる。途中、南條真一編集局長を中心としたマニラ残留組は、移動先でガリ版刷りの新聞発行を開始。まるで美談のように聞こえるかもしれないが、現実にはより切実な“生存をかけた”事情があった。
南條らは、イポの洞窟で同盟や読売の報道班員と共に、二月三日にザラ紙両面にガリ版刷りの陣中新聞「神州毎日」の発行を始めた。
(中略)
発行部数は、約三五〇部。約三ヵ月の間、全部で一〇〇号近くが発行された。新聞の発行は、軍隊と行動を共にしながらも新聞人としての自覚を維持するためだけでなく、部隊内でも兵士とは違った報道陣という身分で扱われた。陣中新聞の発行は、ある種の現実的な特権を維持するための存在意義でもあった。
その後、マニラ新聞社の面々は一部を除き、「ほぼ全滅」する。その過程は、すべての日本人が目をそらさず読むべきだろう。戦争があらゆる人を巻き込み、その命と尊厳を容赦なく奪っていくものであることを痛感させる。

本書はまた、戦争特派員たちが「写さなかったもの」「捉えなかった事実」についても言及する。南京大虐殺の記録はなぜ残っていないのか。占領下の被支配民の痛ましい表情が捉えられていないのはなぜか。そして、飢餓に苦しむ日本軍兵士の写真もほとんど存在しないのはなぜか。

端的に言えば、多くの場合は「そもそも撮影されていなかった」からだ。彼らが社命を背負って行動している以上、当局に「掲載不許可」のスタンプを押されることがわかっているものに、わざわざカメラを向ける理由はなかった。
戦時期には、写真部員や記者も、もちろん検閲を想定して撮影に挑んでいた。また、特派員の取材は、基本的にすべて社命によるものであって、今日のカメラマンと比較できるような自由さなどはなかった。本書で、カメラマンではなく、写真部員と表記する理由も、そこにある。
軍に随行する特派員は、部隊との関係を維持するためにも、警告を受けかねない写真を撮影することには慎重であった。それでもシャッターを切りたくなる場面に遭遇することはあったわけである。
「不許可」のスタンプが押された下の写真は、日本軍の兵士たちが黄河を渡る際、中国人の平服に着替えて変装する姿を捉えた写真である。おそらく新聞記者としての直感が、考えるより先にシャッターを切らせたのだろう。だが、現地での偽装工作を明らかにするこの写真が、当時のメディアに発表されることはなかった。こうした日本軍の行動に、著者は「南京の悲劇」の一因もみる。
軍の壊滅を伴う戦闘の苛烈な実態や、玉砕に至る悲劇的な光景、ましてや飢餓に苦しむ姿などは、一切写真に残されていない。
いうまでもなく、そうした写真は軍の検閲により「不許可」とされる対象であった。また、そもそも玉砕の可能性があるような最前線の島々には、従軍記者の派遣自体が軍にとって認められなかったのである。結果として、毎日戦中写真においては、激戦地における実際の戦闘や、玉砕後の島の状況を視覚的に捉えたものは存在しない。
国や軍部や会社に逆らってでも、ジャーナリストとして報道の自由と真実を伝える義務を貫き、発表する場の見当もつかないまま戦場のリアルを撮り続ける……というような行動を、当時の日本人がとることはなかった。そういう時代ではなかったし、そういう職業倫理も戦後民主主義のなかで育まれたものである。もし現在同じ状況になったとしたら、もちろん報道人の多くが抵抗の意志を示すだろう。だが、その一方で、粛々と状況を受け入れる人の数も驚くほど多いのではないか(自分は最後まで抗うと信じていた人も含めて)。80年前と同じことが再び繰り返されない保証はない、という思いは、年々強くなるばかりだ。
太平洋戦争が起こると、新聞社は軍部への忖度をはかる機関になったというよりも、むしろ軍部と一体化した広報宣伝機関になったというほうが正しい。
戦後になっても、そのことを認めない新聞社がどれほど多いことか。新聞社の社会的責任はきわめて重いのである。
自国の歴史を学ぶということは、「鏡を見る」ということでもある。本書も、そんな認識を読者のなかに育ててくれるのではないだろうか。

レビュアー

岡本敦史

ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。

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