『ゾンビ回収婦』は◯◯◯小説!?
サンドボックス系と呼ばれるゲーム(マインクラフトのような)に軽い気持ちで手を出して、まんまとどハマりし、誰かわたしを止めて! となるまでやりこむ日々を送っていた。
朦朧とする頭で街を歩けば、街というのはこれ、もれなく立方体の集合でできていることがよくよく分ってくる。あれも立方体、ここにも立方体、万物は立方体――立方体さえあればなんだって作ることができる、立方体に作れぬものなどないのである。
マンション、余裕で作れる。スーパー、作れる。歩道橋、作れる。タイルに床石点字ブロック、ずぇんぶ立方体。駅舎作れる、電車作れる、作れる、作れる、作れる。そういう目になる。
ゲームの引力には、そらおそろしいものがある。今どきのゲームというのはことに、行動分析の知見などに基づいて我々の脳の報酬系をじつに巧妙にアレしているものと思われ、それはもうラットのごとくゲームプレイを間歇強化されてしまうのだった。世の中全体の刺激強度が強まっている現代、家庭用ゲーム機もそのへんに節操と容赦がなくなってきているのをひしひしと感じる。本作主人公の境遇に陥ってしまうのも、個人の意志の強さ弱さとはほとんど無関係であるにちがいないのだ。
ものすごく大別すると、『ゾンビ回収婦』はお仕事小説でもある─と思う。ろくに定職についたことのない人間がお仕事小説とはまったく笑える話だし、主人公も開幕で思いっきり失業しているんだけれど、それでもたぶん、社会的役割や承認や依存、その関係について考えようと試みたものではあるのだろう。
仕事ってほんらいは「すること」「従事すること」くらいの意味しかもっていない気がするので、当人が仕事だと言い切るならゲームだって読書だって石磨きだって十全に仕事なのだとわたしは思っている。いわんやゲームの制作者などからすれば、寝食を忘れて自分のゲームにのめり込んでくれる人、どれだけありがたくいとおしい存在か。「あーあ、なにしてんだろ」の時間が、めぐりめぐって人ひとりの魂を救ってしまっているということが、きっとある。こういう無自覚で不可視の関係は、あんがいそこらじゅうでとりむすばれているのではないかと夢想する。当人のあずかり知らないところで、わたしたちは相互に、存在そのものからごっそり祝福・溺愛されている可能性がひじょうに高いのである。
じじつ、これとまったく同じことを小説の作者も読者にたいして思うのであり、へんな話、「読みました」といわれるとその手にそっとお菓子を握らせたいくらいであるし、「面白かったです」といわれればご実家までご挨拶にうかがいたいくらいには好感度が天井を打つ。たいていの制作者はこのように、お客様の存在を犬のようによろこんでしまうのであって、なればこそ、誰かのつくったエンタメを存分に遊ぶこと、これじたい、個人の大仕事に据えられてあってもなんらおかしくはないはずじゃないかと思うのだった。
そして立方体を追うわたしはある日道路のうえに、ねじくれた白線を見るのである。つやつやくろぐろとしたアスファルトのうえで、白線がくちゃっともつれて、そこで塊をつくってしまっている。まるきり修正テープの漕ぎ出しに失敗したようなかっこうで、そのすこしさきで気を取り直したようにふたたび直線に戻ってはいるが、いやあきらかにごちゃっとしてしまっているのであり、到底「いったれ!」でごまかしきれるようなミスではないのだった。
写真を撮るほど面白くもなければかわいいわけでもなかったので、数秒じっと目を落としてから黙って通り過ぎた。それからすぐに、しかし、ああいう白線もまたひとの手作業で引かれていたのだなあ、とばからしいことを思った。なんだかひさしぶりにわたしは、うんと健全なものを目に入れたような気がしてもいたのである。この世の中はあんがい、ああいう誰かの「まあいっか!」の集合で出来上がっているのかもしれず――つまり、あきらめでできた立方体の集合が、この世界を作っている?
今作中の主人公たちは、揃いもそろって物事のやめどきを見うしなって訳が分らなくなっちゃっている人びとである。それこそ「誰かわたしを止めて――!」の様相で。かれらにかぎらずわれわれ現代人というのはおおむねみんなこんなありさまで生きているような気がしており、けして特殊な例ではない、というつもりで書いている。
街であれ、小説であれ─なにかを作るということは究極、引き際を見定めることに尽きるのだなあと最近は、しみじみと思う。引き際を見定められないのなら、ものごとは永劫、完了をみない。自身もまた、あらゆる事がらにかんしてこの、ほどよいところで切り上げる、がたいへんに不得手である。去り際、別れ際、土俵際、え――……間際、水際、往生際……とにかく際でのお行儀が、どうにもよろしくない。あの日あそこでやめておけばきれいだったのに、あのときさっと手をあげて立ち去ってしまえれば、かっこよかったのに。しつこい性格がいつも災いしている。
その点、白線を失敗した作業員のかたは、きっと潔かったのではないか。なんだか気持ちのいいしくじり方、そうして突っ切り方だった。ふしぎと人の心を打つような。
世の中のすべての創作物が誰かの「まあいっか」で出来ていることを思うと、なんだか泣きそうにさえなる。ありがたくて。ある地点で動作を打ち切ること、つまり今の限界を思い、見つめ、くちびるを嚙んであきらめること、その痛みを思うと。
いっぽうでこの世には神がかり的な「まあいっか」が多数存在してもいて、それはけして妥協などではなく、自分ひとりで到達できる最高地点はここだ、として、その先を誰かにさっぱりと手渡すことである、あっけらかんと世界への親愛を表明する行為、そのものである。
そういう誰かの神がかった「まあいっか」のうえを、今日もわたしたちは横断し、「まあいっか」のしたに住まい、「まあいっか」を纏い、「まあいっか」を舌にのせ、「まあいっか」を読んで笑っている――
没頭や耽溺や依存を強いてくる時代にこそ、上手な「まあいっか」を、こんなもんか、で手を放す潔さを学ばねばならない。なぜなら次がある。ゲームが物語が閉じられても、その手許から人生は続き、続き、なお続き、わたしたちの仕事はそのようにしてどうせ、死ぬまで続くのであり。
(『群像』2026年8月号掲載)
「群像」は1946年10月に創刊した文芸誌であり、講談社で最も歴史のある雑誌です。連載「本の名刺」は、新刊を出した著者が自分の本を紹介する、人気のエッセイコーナー。話題の新刊や人気の著者による、本が生まれた背景や著者の思いをお楽しみください。







