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2024.07.09

特集

21歳の現役大学生、衝撃のデビュー作! 群像新人文学賞受賞『月ぬ走いや、馬ぬ走い』

21歳の現役大学生、衝撃のデビュー作!
豊永浩平『月ぬ走いや、馬ぬ走い(ちちぬはいや、うんまぬはい)』刊行記念エッセイを特別公開。

第67回群像新人文学賞を受賞した豊永浩平さんは、琉球大学在学中の現役大学生。 選考委員に絶賛された受賞作『月ぬ走いや、馬ぬ走い』の単行本刊行を機に、群像2024年8月号に掲載された特別エッセイを公開します。

豊永浩平 「ぼく(ら)の亡霊たち」

なにやら自分にはある程度の分量の本を読み、そしてある程度の分量の文章も書くことができるらしい、とうぬぼれの端緒を摑んだ若い人間が、その自覚の延長線上にある「もしや小説家になれるのではないか」という下心へ行き着くには、たいした時間も掛かりませんでした。そしてぼくは沖縄で生まれ、沖縄で育った、ひとまず土着といえる若者です。小説のモチーフとして、さきの災禍を記すことに思いいたるのも、またしぜんでした。しかし、それを留めるものがある、──お前は我々とともにあの戦争を体験したのでもなければ、戦後、限界まで考え抜いた人間というわけでもない、お前に我々を書く資格があるか? という声が。むかし海辺のガマをおとずれたときに聞いた、洞穴ぜんたいに反響する、余りにもくらい海鳴りとして、ぼくは強迫的にその声を感じていました。だからこそ、描くに足る力量と方法論を獲得するまで、機が熟するのを待つことにした。というよりも、待たざるをえませんでした。

およそ年に2回、上半期と下半期を別けるかたちで、それぞれの時期に集中的に読んだ本や、みてきた映画・アニメ、そして音楽をとおして考えたことをすべて合わせて一本の小説を書く。書き上がった小説を公募に送って、インターネットで下読みを募る。高校のおわり頃からこのサイクルを回すうちに、じっさい、あきらかに文章力は向上し、いくつかの文芸誌にも「選考通過者」として名前が載るようになりました。また、それに併せて、インターネットをとおして文学系の同人誌から執筆依頼がくることもあった。大学との兼ね合いもあり、さして多く書けたわけでもなかった(というかひとつしか書けませんでした)のですが、偶然にも、そのひとつというのが、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手たる映画作家、ジャン=リュック・ゴダール追悼を軸に掲げられた、映画の同人誌への寄稿でした。ぼくが論考の題材として選んだのは、立教ヌーヴェル・ヴァーグの系譜「パロディアス・ユニティ」に連なる日本の映画監督、青山真治。彼もまたゴダールの死没に相前後するかたちで亡くなってしまった人物のうちの一人です。方法論の側面からいえば、ぼくがこの『月ぬ走いや、馬ぬ走い(ちちぬはいや、うんまぬはい)』を着想しえたのは、「亡霊」というモチーフについて論考をとおし、原稿を一本執筆したことが大きいように思います。

さて、「亡霊」とはいったい何者なのでしょうか。齧った現代哲学の受け売りなのですが、「亡霊」とは還ってくるものたちだ、というふうに、ひとまずぼくは捉えています。それは、反復するものだ、と言い換えてもいいように思う。青山真治監督のフィルモグラフィではそれこそあまたの死霊たちが、悪意と深淵の間をさまよい歩きながら、宇宙のごとく私語しています。

たとえば「北九州サーガ」の第1作『Helpless』の冒頭には、開け放たれた病院の窓から、カーテンがひらひらと宙になびくカットがあります。白いカーテンのはためきは、作中で現れる隻腕のヤクザがカラのスーツの片袖をひらめかせるイメージと結ばれている。このヤクザはいざこざをめぐり、自殺してしまいます。ところが、サーガの主人公・健次が、まさしく亡霊のように、車窓からひるがえるカラの片袖を目撃するシーンで、映画は幕を下ろします。うすい布がひるがえる、というカットが、ここでは暴力を予兆させるものとして繰りかえされる。このコードは、サーガの3作目である『サッド ヴァケイション』でも顔をだします。そして健次は、カラの片袖にみちびかれるかのように、ふたたび惨劇の渦中に引きずられていく……おそらく監督が手掛けたなかでもっとも著名であろう、バスジャック事件に遭遇した運転手と兄妹が暴力の反復性から逃れ、名前と身体感覚を回復していく『EUREKA』でもいいし、父の放埒な性暴力をみずからもまた再現してしまうのではないかと恐れる青年を描いた、芥川賞受賞作品原作の『共喰い』でも、ミステリ的に殺され、共謀により隠蔽された被害者の死体が、じっさいに幽霊となってスクリーンに迫る『レイクサイドマーダーケース』でもいいのですが、回帰してくる「亡霊」という主題を、青山真治はそれこそ繰りかえし描いてきた映画作家だったように思います。と同時に、この反復から回復するための人々の紐帯について撮り続けた人物でもあった。それは、かつて中上健次が、路地というモデルを据えて丹念な筆力で暴いた、あの神話的なことばの構造と同根にあります。

現代を生きている身として、どうやっても体験しようがないあの戦争を、そのまま描くことはできない。しかし、このモチーフを依り代とすれば、現代につなげるかたちで、沖縄文学として書き継ぐことができるのではないか、とぼくは直感したのでした。成仏しえない「亡霊」たちの再来によって行使される暴力という反復と、彼らの魂を祓う、人間の善性や良心といった、いわゆる「愛」と呼ぶべきものによって紡がれる反復。前者は旧日本軍の幽霊がもたらす「恩賜の軍刀」として、後者は、島尻オバアから波のように語り継がれていく「月ぬ走いや、馬ぬ走い」という黄金言葉(くがにくとぅば)として、ぼくの小説のなかに表れています。

先述した青山真治にゴダール、そして現代日本文学の巨星たる大江健三郎、それからぼくの祖父……この小説を構想していた2022~2023年の間に、公私問わず、ぼくに影響をもたらした幾人もの人物の死が折り重なっていることに、愕然とします。受賞の報せは、沖縄の地元紙でもでかでかと掲載されたのですが、折しもそれは祖父の死から一年忌をひかえたタイミングでした。小説家になってから、はじめて帰った母の実家。作中に登場する島尻オバアのモデルである祖母は、ほんとうに仏壇のまえに手を合わせ、よく沖縄方言で死者と会話します。昨年からは、彼女の話し相手の列のなかに、祖父も加わることとなった。はっきりいって、ぼくは少し怖かった。祖父が亡くなったいまとなっては、家のなかであの声の主たちにもっとも近しいのは、戦争体験者の生き残りである祖母にちがいない、一体なんといわれることやら! しかし、ひさびさに再会した祖母は、皺くちゃの顔を笑みで緩くくずして、こういってくれたのでした。──ええひゃあ、お前(やー)、月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走(は)いんじい黄金言葉(くがにくとぅば)、どうやって知ったのか(ちゃーししっちゃやが)!?

小説を書きおえて、誌面にも発表し、幸運にもさまざまな人から大きな評価を受けました。では、あの 呻き(うめき)にも近い呵責(かしゃく)の声を聞くことはもうないか? となると、実のところそういうわけでもないのでした。とりあえずの休息として筆を置いていてもなお、むしろくっきりと際立ってあの声が聞こえるかのように思えるときさえある。だが、少なくとも、ぼくは、いまできる最大限の能力でもってあの声に応答したのだ。祖母のことばを聞いて、それこそ憑きものが落ちるかのように、そう思いもしたのでした。

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