著者は人類学者の吉田禎吾(1923~2018)。『魔性の文化誌』は1976年に研究社出版より初刊行され、1998年にみすず書房で再刊。本書は再刊版をもとにしている。
著者は1974年のバリ島訪問で得た調査結果を含め、世界各地の民俗文化に見られる「魔性」の発生例をつぶさに拾い集める。それらは善と悪、男と女、昼と夜といった二元的カテゴリーの中間領域に多く発生し、人々の心に畏れと警句を植えつけた。日本国内はもちろん、インドネシアのバリ島やアフリカ各地、ヨーロッパ圏まで含む「魔性の事例」は膨大で、それが本一冊ぶん延々と続くと考えてもらっていい。そこにはいわゆる堅苦しい学術書のような(失礼)、著者による宗教的・倫理的・科学的主観、解釈、分析などは最小限に抑えられ、淡々とものすごい内容が綴られていく。その濃密な味わいは、読み進めるうちにだんだんとクセになってくる。漫画『ダンダダン』や映画『哭声/コクソン』のファンにはぜひ手に取ってほしい。
下記は、第III部「魔性の構造」より、第一章「魔女、死霊のイメージ」からの引用である。舞台は北アフリカのスーダン、村に災いをもたらす悪人のイメージを背負う妖術師(または邪視者)についてのくだりだ。
アフリカのスーダン南部の牧畜民マンダリ族の妖術師もいくつかの点で異常であるとされている。妖術師はみにくく、きたないといわれるが、実際に妖術師の嫌疑を受けた者には、ハンサムな青年が多い。妖術師はルべ(rube)というが、これは常に男で、夜活動するといわれる。夜、呪いの言葉を口ずさみ、「お前は死ぬのだ」と繰り返しながら踊り、その後無意識におちいって横たわる。その間肛門から出血し、意識をとり戻したとき、その血を呪う相手の家や柱や壁に塗りたくる。これによって相手はたちどころに病気になって死んでしまうという。邪視者というのは、そういう人が、人、家畜、畑をねたみの気持で見るだけでその人や家畜を病気にさせ、畑をそこなうと信じられている。妖術師が夜の魔力を持つのに対し、邪視者は昼の魔力を持つとされ、前者が夜活動するのに対し、後者は昼間活動する。邪視者の眼は小さく、黒ずんで、赤味を帯びており、一般に邪視者は目つきが悪いといわれる。
妖術師の外見は必ずしもみにくいわけではないが、妖術師には尻尾があるとか、妖術師の肛門は大きいなどともいわれる。
序章「妖怪と両義性」から始まり、第I部「自然の認識――原初的分類」には「清純な白と無気味な白」「左の神秘」「方位の意味」という謎めいたタイトルが連なる。第II部「水・双子・音」では「さかさ水」「双子の習俗」という怪奇ミステリー小説のような文字列が並び、いよいよ第III部「魔性の構造」に至っては手加減無用。「魔女、死霊のイメージ」「女性の魔力」「不思議な動物 1」「同 2」「同 3」「不思議な来訪者」……これらの章タイトルに心躍らないのなら、読書以外の趣味を探したほうがいいかもしれない。
もう少しだけ、本書を手に取るきっかけとして、かわいい動物にまつわる記述も紹介しよう。東インドネシア・モルッカ群島に暮らすヌアウル族と、クスクスという小動物との特別な関係性について。クスクスは猿に似た外見を持つ夜行性の樹上性哺乳類で、きれいに5本指にわかれた手足などが人間にも似ている。そのため「人の代わりに屠られる」存在でもあったという。
セラム島全体について、そしてヌアウル族においても、成年式のさいに血祭りにあげるのは昔はクスクスではなく人間であったという。人びとを殺し、首をはね、その首を社の中にいくつも並べた。今でも年寄りは、よその村の社に首がつるしてあるのを見たといっている。それが人間の代わりにクスクスを殺すようになったらしい。
これらの伝統、伝承、物語は一体どこから発生したのだろうか? 土地の神秘が人間のイマジネーションを際限なく育てたのか、あるいは野放図な想像力が言い伝えを補強したのか。もしくは、ゆるぎない現実の冷静な記録をもとにしたにすぎないのか? いずれにしても、人間と自然が営々と築いてきた「魔性の物語」には、理屈やモラルをも超えたパワーと誘因力がある。日本各地に残る禁忌の伝承を含め、土地ごとに表れるカラー、そして思いがけない共通性もまた興味深い。
まるで地球の王様のような顔をしてふんぞり返り、世界を自分に都合よく均一化しようとする発想が、いかに愚かで傲慢なことか……現代人であれば当然分かっていることだと信じたい(反面教師もうじゃうじゃいることだし)。そんな今日的テーマも脳裏に去来しつつ、圧倒的な面白さで読ませる一冊である。







