著者は、毎日新聞社の特派員としてベルリン、ロンドン、カイロなどに勤めた経験を持ち、現在は同社外信部長をつとめる篠田航一。本書ではドイルの生涯を過去の文献等で調べ上げつつ、現地イギリスに赴き、多分野の研究者たちにインタビューを敢行。読みやすく、それでいて厚みのある一冊に仕上げている
私は原稿を書きながら、この人は事件運が強いというか、つくづく「事件持ち」の人だという思いを強くしていた。
新聞記者の間では、自分の持ち場で頻繁に大事件が起きる記者をよく「事件持ち」と呼んだりする。ドイルの場合は、どちらかといえば自ら積極的に首を突っ込むタイプなので、勝手に事件が舞い込んでくる「事件持ち」とは厳密に言えばやや違う。ただ、その人生を振り返る時、いつもこの言葉を思い出していた。
心霊に夢中になり、フリーメイソンにも入会し、好奇心の赴くままに活動したサウスシー時代のドイルは、さらに催眠術やテレパシーにも興味を持った。オカルト三昧である。
特に夢中になったのが、ウィジャ・ボード(Ouija board)を使う降霊会だ。(中略)要するに日本でいえば「コックリさん」だ。
ドイルは一八九一年五月に一週間ほど寝込んだ時期があった。実はほぼ「危篤」だったらしい。
人間は死にかけて初めて、自分の真の気持ちに向き合うのだろうか。自伝ではこのように振り返っている。
「書くことにわが生涯を託そうという考えが浮かび、狂喜してそう決心した。今でも覚えているがそのとき私は、ベッドの上掛のうえにおいてあったハンカチを弱りきった手でつかみ、うれしさのあまり天井へ投げあげたものである」
一度きりの人生、好きなことに身を捧げよう。生死の淵をさまよったドイルは、はっきり決意した。その瞬間、ハンカチを投げるほど興奮したのだ。
ただ、ドイルはホームズの物語に心霊を持ち込むことだけは最後までしなかった。『バスカヴィル』自体、ドイルのゴシック趣味、怪奇趣味が色濃く出た作品だが、ここも科学と非科学の間で揺れる素振りを見せておきながら、きちんと合理的に事件を解決させている。
ジョーンズ氏はこう語る。
「『バスカヴィル家の犬』は、実は二つの異なる小説が折り重なって描かれているのです。一つはダートムアという民俗学の世界、魔犬や先祖の呪いといった世界を舞台にしたゴシック小説です。これは本来ドイルが書こうとしていた超自然的な物語そのものです。そこに都会的な世界を象徴するホームズがやって来て、合理的に謎を解き明かそうとします。つまり、ドイルの世界とホームズの世界が重なっているのです」
ホームズは合理的な唯物論者だったが、ドイルはそうではなかった。この二つの人格が重なり合ったところに『バスカヴィル』が生まれた。
ドイルは看板シリーズを再開させつつ、恐竜が生き残るアマゾン奥地を舞台にした初の冒険SF『失われた世界』を1912年に発表。ジャンルにこだわらない旺盛な作家活動を続けながら、オカルト研究にもいそしみ、コティングリー妖精事件やアガサ・クリスティー失踪事件などにも積極的に身を乗り出す“ご意見番”となっていく。
ドイルは『ストランド・マガジン』の編集部に、オカルトめいた原稿を次々と送るようになる。霊媒の体から放出されるという謎の物質「エクトプラズム」の話や、妖精の実在を論じる話だった。
編集部は困り果てた。社内の会議でも、さすがにこんなネタは掲載できないという意見が多数を占めた。だがドイルは長年にわたって雑誌の売り上げを伸ばしてくれた恩人でもある。編集部は結局ドイルに押し切られ、オカルト論文が世に出ることになった。
自伝の中でドイルは、心霊学研究について「これこそ口やペンを通して私の生涯の残りをささげうる仕事」と記した。
ドイルは晩年、惜しげもなく心霊に財産を注ぎ込んだ。心霊関係の雑誌を自費で支援し、心霊研究グループの運営に関わった。そして、サイキック・ブックショップ(心霊書店)という名の資料センターを立ち上げた。国家機関の近くにあれば普及も進むだろうと考え、国会議事堂やウェストミンスター寺院に近いヴィクトリア・ストリートにその事務所を構えた。スタシャワーによれば「目の玉が飛び出るほど高い」家賃の物件で、書店の中には心霊写真の書籍も置いた。







