私たちはいろいろな場の中に生きている。しかし、場というフレームそのものを意識することは少ない。あわない場の中に無理やり自分自身をあわせようとすると、遅かれ早かれ、いずれ無理が来る。不和のシグナルは、身心の違和感として訪れているだろう。シグナルの音はささやかなものだから、沈黙し、じっと耳を澄まさないと気づかない。サイズがあわない洋服を無理やり着ていると、肩が凝ってくるし動きも制限される。場は衣服のようなものだ。場は衣服のように私たちを包み込んで守っているが、同時に私たちを縛りつけてもいる。
私たちの身心はゆらいでいて、膨らんだり縮んだりしている。いのちも生活も人生も(すべてlife)ゆらいでいるのだから、そのゆらぎの中に身を委ねてみよう。
でもそんな稲葉氏は、学生として医学を学んでいるころから、第一線の循環器内科医として臨床現場で働いているときまで、ずっと大きな違和感を抱えていたという。
医学部生のあいだは解決できないまま、研修医となった。医師としての研鑽を重ねながら、10年以上も熟考し続けていた。あるとき、頭の中で花が開いたかのように突然わかった。それはとても簡単なことだった。私は、病気とは何か? という「病気学」を学びたいのではなく、健康とは何か? という「健康学」を学びたかったのだと。
しかし、稲葉氏は哲学・倫理学・宗教学・東洋医学ほかさまざまな学問に触れながら「自分が本当に学びたいものはなんなのか」を自分に問い続けてきた。そんな彼が辿(たど)り着いた「自身にとっての健康とは何か?」を求め続ける「健康学」では、次のように考えるという。
認知症に対しては「物忘れが多くて困る日常の中で、どうやったら健康に幸せに生きていけるか」と創意工夫していくことが肝要となる。がんなどの病気に対しても「病気が治らなければ健康になれない」ではなく「健康になったら病気と共存できる」と考えることが大切だ、という。
自身も科学者であり、西洋医学の学徒でもある稲葉氏は、通常の医療行為や医学の否定は一切、していない。ただ「いわゆる医学の枠を超えたところに視点を置いた、健康に幸せに生きるための別角度からのアプローチ」も必要なのではないか、ということだ。
心に悩みを抱えたとき、心身ともに不調になったとき。多くの人が己の境遇に対して否定的になる。「なぜ自分が……」という被害者意識や、「どうしてこうなった」など過去の自分の罪を咎(とが)める意識が強くなりがちだ。
しかし稲葉氏は、この心の動き自体が「人生における幸せから遠ざかる要素である」として「遠ざけるべきものだ」と語っている。自身の過去も含めて、現状は厳然としてそこにある。それを否定的に考えても、物事は決して好転しない。まずは現状を受け入れ、肯定すること。そこからより肯定的な未来への道を模索すること。
これは一人一人の健康や人生についての考え方であると同時に、稲葉氏が今、大学で教鞭をとっている講義の中で取り上げる「持続可能な社会」(SDGs)に関する考え方でも同じであるという。
「このままでは人類が滅亡してしまう」「こんなに暗い未来が待っている」という「危機感マーケティング」では、前向きな行動変容は容易には起こり得ない。それよりも「自分を愛し、その愛を少しずつ周囲に広げ、世界や地球を愛する心へと到達させる」こと。愛のために行動する力は強い。「好きなものを守る」という視点から考えていけば、おのずと自らに課せられた課題も見えてくる、という。
本書は、自身の健康や、病気の話のみではない。人生のすべてにおいて「己の生きる環境や狭い世界の知見・常識に囚われず、より高次の視野を以て現実を肯定して受け入れ、その上で未来を見据えて動くためにはどうすればいいか」。稲葉氏が「ある気づきにより人生が大きく変わった」という自身の体験も踏まえつつ、極めて平易な言葉で語っている一冊である。
そこで出てくるさまざまな方法論も含蓄深いものが多かったが、本書の後半に「結局はこれだよな」という一文があった。
人生は短いようで長く、長いようで短い。人生を生きる中で「自分」という巨大な謎に挑み、困難を乗り越え希望を忘れず生き抜くためには、「いのち」の根底に「ただ生きて存在しているだけで十分だ」という無条件の生命哲学が必要だ。親ができることは、本当はそうした単純なことにすぎないとさえ思う。子どもが死にかけたときには「生きているだけで十分だ」と願うが、元気になると親の欲望が発動してしまうのは皮肉なことだ。多くを求めず、足るを知り、ただ生きていること自体が幸福であると感じる心さえ育てば、どんな環境でも朗らかにご機嫌に生きていくことができるだろう。
人間、困難や不幸に陥ったタイミングほど、無意識に視野が狭くなりがちだ。
そういうときこそ「視点を変えるヒント」として役に立つ、そんな一冊と言えるだろう。








