現状、この国ではほとんどの大人が「戦争を知らない子供たち」となり、かつて世を支えていた「戦中派」と呼ばれる人々の存在が、どんどん貴重さと重要性を増している。本書はそんな彼らの肖像を、戦前から戦後にかけて検証してみせる力作である。著者は『昭和の参謀』『おかしゅうて、やがてかなしき――映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』の前田啓介。「戦中派」として生きた人々の著作や証言、さらに著者自身による取材もふんだんに織り交ぜ、生々しい実感とともにそのメンタリティを浮き彫りにしていく。
著者自身の家族の記憶から始まる本書は、「戦中派」の真情と体感に迫る内容ゆえに、その文章も(限りなく平静を保っているとは言え)自然とエモーショナルなものとなる。だからこそ随所で読者の胸を打つ。約500ページの大著だが、ページを繰る手が少しも止まらないのは、それが将来の日本人の姿を映し出す「鏡」だからだろうか。
そもそも、戦中派とはどんな人たちのことか? 著者は、その定義を「1917年生まれから1927年生まれ」とする。人格の大部分が形成される多感な青年期を、戦争に占められた世代。著者はさらにこんな要素も付け加える。
私が考える戦中派の範囲について説明を続けると、私は戦争前に過ごした時間の有無、生か死かを逡巡したかどうかが重要だと考えている。
「僕自身、戦中派と呼ばれるのが一番しっくりくる」「フル・ネームで呼ばれるような感じである」と述べる作家の安岡章太郎は、1956年の『文藝春秋』5月号に掲載された『モテない「戦中派」』という文章で、より詳しい実感を語っている。それは当時のリアルな“元・若者らしさ”でもあったのだろう。
そして「戦中派」について、自分の大学の同期生で、今はそれぞれの道で生計を立てている友人たちを思い浮かべ、「ある特殊な親近感をおぼえる」と続ける。
別々の環境にいても、会えば心置きなく、会話をはじめる。そこには「おたがひにメグリアハセの悪い時代に生れたといふ共感があるからにちがひない」と推測し、「こんどの戦争で、おれたちが一番ワリを食つてゐる」というのは「共通の感情の基盤」なのだと記している。
すべてが灰色だったわけではなく、むしろ映画『君の名前で僕を呼んで』(2017年)を想起するような瑞々しさで迫る場面もある。懸命に徴兵忌避に励んだ者の記録も、ぜひ将来の参考として覚えておきたいところだ(ただし、それなりの苦労やリスク、罪悪感や白眼視がついてまわる過酷な作業でもあるというのがしんどい)。また、世代的には本書が提示する「戦中派」のすぐ下の世代にあたる作家・色川武大の自伝エッセイを思い出すような興味深い記述もある。戦前・戦中の大衆娯楽の貴重な記録でもある色川の著作も、本書と併せてぜひ読んでほしい。
座談会で田村は「鮎川と二人で寄席にばかり行っていたような気がする。映画、芝居、文学、おまけに詩まで大政に翼賛し奉っているんだから、ピュアなのは古典落語ぐらいなんだ」と言い、「落語はよく聞いたよ。あのときはもう一種のデカダンスだよ」と述べる。鮎川も「簡単に言えば、現実逃避的な江戸の話をやるわけなんだから、それだけでもういいわけだ。外国は駄目なんだ」と応じる。
そんな田村が出征する時は、実家の料理屋で「ひどく派手」な送別会が催され、「芸者屋のオヤジ」から「立派に死んでください」と言われ、腹を立てた。
客は一人もいなかった。安田が一本つけて欲しいとお願いすると、女将は立ち上がり、四斗樽から片口に受けた酒を徳利に移しながら、
「戦争なんかはじまっちまって……安田さんが、今夜の口あけだよ」
と、屈託のない口ぶりでつぶやき、笑ったという。そして『昭和 東京 私史』はこの女将とのやり取りで終わる。東京の冬、破滅に向かう前の静けさが、ありありと眼に浮かぶ。
安田は第一章にも登場した丸山邦男との共著『学生』でも、この夜の相客の一人もいないガランとした飲み屋を思い浮かべると、「『戦争』は、ああしてはじまるのだな、といつも思う」とした上で、「『戦争』はそのようにしてはじまり、女将は、いつもといささかも変らぬ様子で、『その日』を迎え送ったわけだ」とつづっている。
要するに信じているのは、明日がある、ということだけですね。寝て、目が覚めたら明日があるということだけで、そこから先のことは全然考えません。人間も極限まで行くと、思考は停止してしまいますね。いま今日があって、寝て目が覚めたら明日があって、横で話していた兵隊が冷たくなっておる、ということです。誰が生き延びていくか。生き抜き競争みたいなものですね。(中内・御厨編著『中内㓛』)
アイツが死んで、オレが生きた、ということが、どうにも納得できないし、その上、死んでしまった奴と、生き残った奴との、この“決定的な運命の相違”に到っては、ますます納得がゆかない。――納得のゆかない気持は、神秘主義や宿命論では、とうてい納得ができないほど、それほど納得がゆかない。まして、すっきりと論理的な筋道などついていたら、むしょうに肚が立って来るだけのことである。
彼らは八月十五日以降も生き続けねばならなかった。
また、「戦中派」の存在こそが日本の高度経済成長を可能にしたのではないかという、社会学者・間宏(はざまひろし)の考察も興味深い。言いかえれば、同じような経済発展を戦後世代やその子孫に求めても、土台無理な話だったのではないかということも痛感させられる。
その上で間は「戦前派、戦中派の人びとにとって、戦時中の日々の生活において、死は日常性であったという事実である。軍人はもちろん、勤労者にとっても、明日の命だけでなく、一寸先に死が待っていた」と論じる。彼らは戦時期だけではなく、戦後の高度経済成長期も、そういう心情で働いていたというのだ。そして、それは「日本人の仕事を生きがいとする生き方と結びつき、『死に物狂いで』働くとか、『命懸け(懸命)で働く』、仕事で死ぬのは仕方がない、という労働観を生み出した」と考察した。
戦中派は、自分の一身を鳥の羽か虫っけらのように扱うことを長年教えこまれ、戦中から敗戦まで徹底的に肉体を酷使され、戦後の混乱期からようやく立ち直ると、ただがむしゃらに、戦争協力者の汚名をそそぐには身を粉(こ)にして働くほかはないようにして働き、妻子の愛し方も人生の楽しみ方もろくに知らず、肉体酷使の習性を身につけたまま、五十を幾つも過ぎないのにぽっくり逝ってしまう奴が実に多い。腹立たしいほど不器用な、馬鹿正直な男たちである。
一度捨てた命だからこそ、本気で大切にすべきではないのか。戦中派生き残りは、すでに定年年齢を過ぎた。第二の人生の荒波はいかに厳しくとも、残された余生を充実して生きようではないか。死んだ仲間の分まで(こういう発想そのものが戦中派的であることはよく承知しているのだが)、大いに長生きしようではないか。







