無論テロは怖いが、しかしより怖いのはテロを肯定する感性、テロを義挙と見る心理、賛美する表現なのである。昭和のテロはそのことを余すところなく教えている。そのことを何度でも確認しておきたいと思う。特に国家改造運動といった言い方をされると、社会正義への志向が感じられるようになってしまい、それが暴力の是認と一体化していることが不透明になる。その辺りをきちんと整理しておかなければならないように思う。
2022年7月8日、安倍晋三元首相が奈良県奈良市で演説中に銃撃され、死亡した。その衝撃的事件は、かつて日本に蔓延(まんえん)していた「不穏な時代の空気」を本書の著者に思い起こさせる。昭和初期の「テロルの時代」とはなんだったのか、それが現代にも繰り返される可能性はあるのか。ふたつの時代の相違点と共通点を掘り下げ、検証していくのが本書のテーマである。
昭和5年(1930年)の濱口雄幸首相狙撃事件に始まり、昭和11年(1936年)の二・二六事件に至るまで、まさに「テロがこの国を変える」という機運に一部の人々が沸き立った異様な時代があった。著者はこの時代に関する豊富な知識を総動員して、その特殊な状況を浮き彫りにしていく。現代にも通じる大きな共通点は、政治テロはいつの時代にも「不満」や「危機感」が引き金になるということだろう。一方で大きな違いもある。当時の日本には、軍部VS内閣という明治維新から引き継がれてきたような構図があった。昭和初期のテロ事件には、国家改造・政権打倒をもくろむ軍部が密接に関わり、大がかりな組織的クーデターとして計画されることが多かった。なんと危なっかしい時代であることか、と思わずにいられない。
昭和6年(1931年)の三月事件、十月事件はいずれも未遂に終わったクーデター発覚事件だが、それらは軍内部の不祥事として闇に葬り去られた。しかし、昭和7年(1932年)にはふたつの暗殺が実行され、さらに大規模なクーデター計画も暴露される(血盟団事件)。同年には、当時の首相・犬養毅が青年将校らによって総理公邸で暗殺された(五・一五事件)。これらの「憂国の志士」たちが起こした事件は、テロとクーデターの見分けがほとんどつかない。本来、テロリズムには社会不安を煽(あお)るという目的も大きくあるはずだが、彼らにはそんな意識すらないようにも思える。「この国を守りたくて」「良かれと思って」「やむにやまれず」起こした純真な行動であり、裁判でも多くの被告人が自身の正当性を主張したという(それどころか、同情の涙を流したり、情状酌量を訴える傍聴人もいたとか)。そういう愁嘆場を醸成して味方を増やすのは、いかにも日本人らしいやり口ともいえる。
だが、そういう直情的動機の向こうにあるべき、その後の具体的政策の展望までには頭が回っていない。最も大規模なクーデター事件となった二・二六事件にしても、革命成功後に確固たる国政のビジョンがあったのかどうかは曖昧だ。暴力衝動や反権力精神を満足させるところまでで彼らの「革命」は終わっていなかったか、と本書は示唆する。
二・二六事件がたどり着いたテロの結末とは、一体何を物語るのだろうか。次の三点をひとまずの「負の三要素」と見る社会的ルールが確立しなければならないと思う。
1 テロの行き着く先は、社会病理の蔓延である。
2 決行者の「正義感」が異様な形で歪んでいく。
3 テロ、クーデターを利用する政権は暴力的になる。
二・二六事件はクーデターとしては失敗に終わったが、結局は軍部の国政干渉をより強化し、日中戦争、太平洋戦争への道筋を作り上げていく。その結果は言うまでもない。似たような過ちは日本だけでなく、世界各国で繰り返されている。たとえば韓国の軍事独裁政権のトップに居座り続けた朴正煕大統領は、1979年に側近に暗殺されるが、後釜に座った全斗煥はさらに厳しい言論統制と弾圧を展開。民衆はさらに何年も苦しい時代を過ごすことになった。そして現代、安倍晋三元首相が暗殺され、現政権は震え上がるかと思いきや、現状はご覧のとおりだ。むしろ挑発的になってきているとさえいえる。「テロの時代に見られる『人材登用の悪化』」という印象的な文言が本書に登場するが、まさにそれは我々がリアルタイムで直面している事態ではないだろうか。次に来るのはどんな時代なのかという著者の危機感は、否応なく読者にも伝わってくる。
よりわかりやすく言うのであれば、国内のテロとクーデターが終わりを告げて、第二幕として国外にその動きが転化していたとも言えた。
ちなみに二・二六事件の翌年、昭和12年(1937年)に刊行されて話題を呼んだ児童向け小説が、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』である。政情不安とテロが横行する世の中を作り上げてしまった大人たちが、次世代に到底顔向けできないような時代、子どもたちに何を託すことができるだろうか? そんな切迫した思いをひしひしと感じさせる、やはり不安や危機感と背中合わせの啓蒙書である。それと同じ題名を持つ作品を、宮崎駿監督がアニメーション映画として現代の世に放ったのは、決して偶然とは言えないだろう。
安倍晋三銃撃事件の実行犯・山上徹也被告のパーソナリティについては、昭和初期のテロ事件との関連性はあまり考えなくてよさそうだ。犯行後に報道された意外な動機や、事件が与える社会的影響も考慮していたかのような冷静さは、昭和の熱血テロリストたちとは随分と性質が異なる。しかし、にわかに彼に対して同情的なムードが日本中に広がると、著者は「あの時代の再来」を危惧する。正義のための暴力が容認されると、国家権力は硬化と統制を強め、やがてファシズムを呼び込む。その萌芽は、我々のほうにこそあるのだ。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。