小学校の歴史授業でのことだ。生徒が質問する。「信長や秀吉は天下人となったけど、どうして『幕府』を開かなかったの?」こんな内容だ。源頼朝や尊氏さらに家康は、同じく武士だけど「幕府」を創ったのに、どうしてなのか? と。先生は自信ありげに答える。「それはね、征夷大将軍に任命されたかどうかなんですね」と。
なるほど、そうなのだろう。が、ホントにそうなのか。素朴にして鋭いこの問いへの回答の準備が「序章」以下での本書の中身となる。
そして、明治維新後、概念としての「幕府」は一般化し、流布することになる。そこにはどんな過程があり、どんな思惑があったのか? 他の時代とは区別される「幕府」の内包する意味とは何か? 本書はそんな「自明のこと」に隠された真意を掘り下げる1冊であり、深遠な歴史ミステリーを読むような気分を読者に与えてくれる。
「幕府」について問われるべきは、その語感に込められた“時代の意思”を看取することだ。「幕府」概念の自覚化である。なるほど利便性に闌(た)けたその用語は、わが国の近代以降も人々の歴史認識と一体化しつつ、今日に至っている。幕末維新での王政復古の大勢にあって、天皇の再生を是とした、わが国の歴史の選択のなかで用いられた。
もともと独立性の強い武家が全国を手中に収めるような権力を握れば、それは「覇府」と呼ばれるような権力体となる。織田信長や豊臣秀吉が作り上げたのは、こちらのほうだ。
およそ「幕府」が「朝」の枠内にあるとすれば、「覇府」とは「野」に同居する理念と整理できる。「統治」の象徴を朝廷・天皇に見立てたとき、「調教された武家」の呼称、これが「幕府」だった。本書の結論である。その点でいえば信長もあるいは秀吉も、戦国動乱期にあって自らを“天下人(てんかびと)”と規定した存在だった。在来の統合的秩序を逸脱した武人への呼称で、「朝」の世界の“埒外(らちがい)”に位置した。
だが、江戸時代後期の思いがけない「ナショナリズムの高まり」から、それまで蚊帳の外に置かれていたような天皇の存在にスポットが当たり始める。このあたりは現代日本のいびつなナショナリズムの高揚と比較して考えてみても興味深い。そして、その時期こそ「幕府」が発見された時期でもあったと著者は指摘する。
けれども江戸後期以降になると、武権への相対化の流れが登場する。改めて武家と天皇との関係が取沙汰される段階となった。光格(こうかく)天皇の時代に、朝幕関係をめぐりいささかの議論が勃発する。有名な「尊号一件」がそれだろう。(中略)「幕府」なる用語が武家の自己認識として、史書・史論書等々に散見するのも、その段階以降のことだった。その点では江戸後期は武家の権力に翳りが見え始める。それにともない武家と朝廷・天皇との関係性が、俎上(そじょう)にのぼることとなる。
つまり、天皇を形の上では戴きながら、武家が権力を執行している現実を、どのように解釈するのか。それへの回答が要請されるようになる。江戸前期までは凍結状態、別のいい方をすれば天皇・朝廷は、限定された文化的要素の核としての期待値だった。幕府が朝廷との関係を定め、天皇に和歌や学問に励むようにすすめた、「禁中並公家諸法度」が語るようにだ。そうした概念が凍結状態から融解し始めた。「朝」への忖度が始まる。
そこに重要なインフルエンサーとして登場するのが「水戸学」だ。これはかの水戸光國が始めた『大日本史』編纂という大事業の過程で、天保年間ごろに水戸藩によって主導された政治思想であり、幕末の尊王思想、ひいては倒幕運動にも大きな影響を与えた。「水戸学」には、本書のテーマの核心も含まれているという。
「水戸学」は、そのナショナリズムの高揚のなかで、「幕府」の概念を登場させた。それこそが、日本的政治形態(天皇システムのなかに包摂される武家=「幕府」観)の発見だった。
「幕府」という言葉の成立過程を考えることは、すなわち何と向き合うことに繋がるのか? 我々が「昔の政府の名称」程度にしか考えていないかもしれない言葉がはらむ重要な意味を、本書は巧みな筆致によって浮き彫りにする。それはどこかダークで不気味なポリティカル・スリラーを読むような感覚にも近い。
だとすれば、この立場が行き着く先は日本と天皇の“発見”にも重なる。
『〈幕府〉の発見』という書名が気に入っている。成熟・発酵期間からすれば、いささか早いかもしれないが、「一気呵成」の気分が似合うほどに書き上げた内容だ。ともかく巨視的立場から武家なり幕府を考えたもので、当方にとっては体内にある微量の思考マグマを噴出させた内容だ。







