日本の「近代歴史学」の成立を追ったこの本は、そのまま明治日本がたどった〝開化〟から〝国粋〟への歩みをうつし出しているように思えました。関さんは〝文明〟と〝文化〟という二つの軸でそれを浮かび上がらせています。
「文化が固有的・地域的・特殊的要素に彩られているのに対し、文明はその対極に位置する、普遍的・国際的・共通的要素という属性がある」といえ、もちろん両者は重なりあう部分はあります。「価値理念を〝広がり〟で理解するのが『文明』で、〝深まり〟で考えるのが『文化』ということ」になるのです。
明治維新は特殊的であった江戸「文化」を抜け出し、世界普遍的な「文明」を目指したものだと、ひとまずはいえると思います。ひとまずというのは、〝坂の上の雲〟に見えていた「文明」に達したと思い込んだとき、日本はゆっくりと、しかし確実に「文化」の発見に向かっていったように思えるからです。
ところで、江戸時代とはいえ、日本はまったく西洋文明と切り離されていたわけではありません。蘭学という形で西洋にふれてはいたのです。けれど江戸時代の学問の主流は朱子学でした。私たちはつい朱子学というと「カビ臭い、封建的要素に満ちた学問」と考えがちですが、朱子学は、「人間のあるべき姿、国家の進むべき道、まさに『~すべき』という価値体系に裏打ちされた学問」でした。そして万物に先立ってあるとした〝理〟を最重要視したのです。さらに名称と分限の一致を求め、名称を正すことによって階級的秩序を維持・固定化しようとしたのです。この名分論は武家社会に受け入れられ「近世江戸期の思想界の基幹」となっていました。
ではこの朱子学を駆逐(!)して蘭学・洋学が文明開化を進めたということなのでしょうか。近代という合理的な精神は輸入ということだけで芽吹くものではもちろんありません。それを受け入れる土壌がなければ開花することはないのです。関さんは江戸時代にあった合理的精神を追い、二つの源流を見出します。
ひとつは山片蟠桃に代表される町人学者の流れです。商家の番頭であった山片は〝自己の眼〟で見極めることを重視した現実主義的な思考を学問の世界にもたらしました。
そしてもうひとつは朱子学そのものの中から生み出されたのです。朱子学は「歴史を『鑑』と見、過去の経験を将来の手本と解する」思考法を持っています。さらに「物に即し理を窮める」(格物致知)という姿勢には「近代的な『合理』と同一ではないが、そこには実証的・実験的態度も要請」されていたのだと関さんは指摘しています。
さらに、この朱子学の〝理〟という言葉は明治期に西周によって次のように解釈し直されることになったのです。
「要するに『理』とは自然界、人間界を支配する法則だが、それには二つがあったこと。一つは人間界の『理』で、道理なり理性がこれに該当し、『心理』と表現できること。二つには自然界の『理』で『物理』と呼び得ること、である」(西周)
いささかアクロバティックな感もしないではないですが、ここには西洋文明(普遍)をいかに日本に根付かせるかという苦闘を見るべきなのでしょう。さまざまな西洋文明の言葉を日本語に移植しようとする、そのひとつのあらわれだったのです。
「この『理』による厳粛・理想主義では現実に対応しえない」と荻生徂徠は朱子学を批判しましたが、西周は逆にこの「理」という概念を拡張することで朱子学的風土に「文明」の種を植えつけたのです。
さて、歴史学における「文明」というものはなにより〝実証的〟というものでした。それまでの「~すべき」という名分論から離れて「文明国」の精神のあらわれでもある合理性、実証性、実学性の上に日本の「近代歴史学」を打ち立てようとしたのが明治初期の歴史学者でした。それは「普遍性」への追求でもあります。つまり日本の歴史に西洋の歴史と同等なものが発見できるかということにつながるのです。
関さんはこの課題にこたえたものとして日本の「中世の発見」ということの重要性を指摘しています。「西欧の封建制と同種のものを〝発見〟したことは、〝入欧〟という夢の実現にも繋がった」のです。西欧型の中世と同等のものが日本にもあったということは、とりもなおさずそれが日本が西欧と並びうる国であるという思想につながるものだったものです。実証性に基づく「近代歴史学」が成立したと思われた瞬間でした。
けれどこの実証性というものが思わぬ陥穽を生んだのです。それが南北朝正閏論でした。この問題をめぐり再び朱子学・水戸学が歴史学の世界に大きな影を落とすことになったのです。南北朝、どちらを正当とするか、その時の実証性とはなにかが問われたのです。と同時に大きく注目されたのが南朝の忠臣と呼ばれる人たちへの評価でした。
それはまた、文明国(欧米諸国)と肩を並べた日本が固有の「文化主義」に目覚めた瞬間でもありました「欧化主義から国家主義への推移であり、文明主義から文化主義への移行だった」のです。
この問題は学問上の論争を超えて、政治的は課題ともなっていきました、日本の歴史が「国体史観」へと変質していく嚆矢となったのです。
「学問ハ歴史ニ極マリ候」とは荻生徂徠の言葉ですが、歴史を振り返ることでしか私たちは教訓を得ることはできないのかもしれません。この本は、いまでも続く〝国家〟と〝歴史研究〟との軋轢を考えるうえでもとても参考になるものだと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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