「はじめに高天原があり、「国」は「ただよ」っている、その高天原に神々があらわれて「国」を世界として成り立たせていく──これが、『古事記』の語る世界のはじまりなのである。高天原という天の世界を基点とする世界像であり、それを見定めることが、『古事記』の読み出しとしての核心だと考える」
そしてただよっている国が世界として成り立った時、つまり「葦原中国が世界としての完成を見たところで」「高天原から降る神によって正統に所有される」。『古事記』とはこの正統性によって天皇が国を治めることができるということを徹底的に追求している物語なのだというのが神野志さんの古事記論だと思います。
その読みの厳密さによって見出された『古事記』の世界は私たちが思い込んでいたものとは大きく異なっています。
ひとつは、「黄泉国の話が一般的に死者や死をめぐる神話として見られるべきではない」ということです。黄泉国は地下世界ではなく葦原中国と同じ空間にあり、イザナキによって行き来を封じられた国であったということです。天(高天原)、地(葦原中国)、地下(黄泉国)という三層構造で世界は成り立っているのではありません。特権的な〝天〟があり、そして〝地〟がある、というのが古事記があらわしている世界です。
「大事なのは、黄泉国が、イザナキ・イザナミのつくってきたところをあらわし出すということだ。「国」の周縁なる世界としての黄泉国が、「中つ国」というありようをはっきりさせたのだということを、黄泉国とのかかわりの意味としてまず押さえたい」
これは、いまだに支配がおよばない国が周縁にあるということを示しています。
ではこの未完の国は誰によって完成させられたのでしょうか。神野志さんによると、スサノオの力を借りた大国主神の出現によって葦原中国が完成したということになります。そして「葦原中国が世界としての完成を見たところで降臨」したのです。
もうひとつは、この「天の高天原にはついては説明がない。もうすでにあるものとして、自明あるいは無条件」で存在しているということです。普通、神話に語られている「天地としての成り立ち」を古事記は記していません。日本書紀には語られていますが古事記にとって天地の始まりということは重要なことではありません。重要なことはこの世界が誰によって、いかに統治されるかということだったのです。この古事記という物語は通常いわれている以上に政治的な文書であり、天皇による統治秩序の正当性とその根拠を強く主張しているものなのです。
日本書紀との大きな違いは世界の始まりの記述だけではありません。
「『日本書紀』は中国についてふれることを回避しない。むしろ、積極的に中国とのかかわりを含めて天皇の世界の歴史をのべる」のに対して「『古事記』はそれを回避して、「天下」の歴史としての統一性・完結性をたもとうと」していると神野志さんは指摘しています。古事記が書かれた目的がはっきりと出ているところではないかと思います。
「中国にはふれないことによって、「天下」の歴史を、一貫して、天皇のもとの世界として成り立ってきたものだと語るのである」
ここでは中国皇帝からの冊封というような〝事実〟は記されることはありませんでした。それを認めるということは〝天皇の天下〟というものとは別に〝中国の天下〟があることを認めることになるからです。それではアマテラスの正統性が消失してしまうことになります。それは古事記の作者にとって認めてはならないものでした。
あくまでもアマテラスからの一統によって統治の正当性を主張しようとする古事記の意図は最後まで徹底しています。徹底した共同体の内部での支配の論理でつらぬかれているといえるでしょう。権力の正当性をもとめるために高天原を存在させたといってもいいくらいに思えてきます。
強靱な読みで明らかにされた古事記の世界、それは現在(当時)の支配を正当化できるものはなにかということを突き詰めた政治性に貫かれたものでした。古事記を含め神話の読み方が大きく変わる1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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