4月16日にしたためられた釈氏の最初の1通から、若松氏が2024年の10月9日に送った24通目まで、実に3年半。この期間はまさに、コロナ禍と重なっていました。
釈徹宗氏は、大阪の如来寺の住職でありながら、比較宗教思想・宗教文化が専門の宗教学者。一方の若松英輔氏は、生後90日で洗礼を受けた生粋のカトリック信徒で、批評家であり随筆家でもあります。NHK「100分de名著」でおなじみの人もいるかもしれませんね。
本書を読んで驚いたのは、宗教に造詣の深い2人が「信じるって何?」という基本的なところから議論を始めていることでした。若松氏は「信じるって、人間が獲得する能力じゃなくて、ある種の本能じゃないか」と問いかけ、釈氏は「宗教を信じるのは、身体に合わない服を着るようなもの」と返しています。
これが、めちゃくちゃ面白くて、コロナ禍でマスクという「合わない服」を着続けさせられた私には、この比喩がしっくりきました。なるほど、宗教って最初から完璧にフィットするものじゃないのだろうなと。着続けて、少しずつ自分のものにしていく。あるいは、自分が変わっていく過程が信仰なのかも、と私は受け取りました。
また、釈氏の「合誦(がっしょう)によって、そこに聖なる場が出現します」という言葉も印象的でした。
そもそも宗教聖典というのは、声を出して読むようにできています。これは、ほとんどの宗教に共通しています。ですから、多くの宗教聖典では、対句が活用されていたり、韻を踏んだり、できるだけ調子良く読めるような単語を使ったり、工夫が施されています。声に出して読むことによって、その教えが身体化していきます。
黙読というのは、近代になってから始まったそうです。書かれたものは声に出して読んできた歴史の方がずっと長いわけです。特に宗教聖典は、みんなで合誦するようにできています。みんなで声を出して読誦(どくしょう)するのです。合誦によって、そこに聖なる場が出現します。
実際、書簡の間隔を見ると面白いことがわかります。2022年2月から12月まで、約10ヵ月も空白期間があるんです。お二方の環境の変化や体調の問題などもありますが、この時期を調べてみると、ちょうど第7波、第8波が襲ってきた頃でした。でも2023年に入るとペースアップして、2024年には2ヵ月で一往復のペースで手紙が交わされている。社会が「ポストコロナ」に向かうにつれて、2人の対話も加速していったように見えます。
11章構成の本書で特に心に残ったのは、最終章の「死者」でした。「先立っていった人の人生は、縁のある人の人生に混在して、血肉化していく」と釈氏、「死者の実在は、生者の記憶や生者の存在に依存しない」と若松氏。コロナで多くの人や機会を失った時代、言葉の重さをしみじみと感じます。
葬儀すらまともにできなかった時期がありました。最後のお別れも満足にできなかった人たちもたくさんいました。だからこそ、死者とどう向き合うか、死者をどう位置づけるかという問いは、宗教だけでない切実な課題として改めて意識させられます。
仏教とキリスト教。60代と50代。関西と関東。学者と批評家。一見すると対照的な2人ですが、共通点もあります。両者とも「生きた宗教」を大切にしていること。釈氏はNPO活動を通じて社会問題に取り組み、若松氏は東日本大震災後の死生観を問い続けてきました。
そして何より、2人とも「言葉の力」を信じている。釈氏の説法も、若松氏の詩作も、それぞれ異なる形で宗教的真理を言語化しようとする営みです。だから往復書簡という、言葉だけで勝負する形式がぴったりハマったんでしょう。
往復書簡の初期は居合の勝負のような、ガンマンの早打ち勝負のような切れ味を勝手に感じていましたが、やり取りが進むにつれて坑道を2人で協力して掘り進めていくような印象を抱きました。お互いがそれぞれにとって優秀なファシリテーターになったような、爽快感すら覚える読書体験でした。








