なにかが、たまごの カラを うちがわから ひっかいて、
でて こようと して いるんだ。
ソリ、ソリ、ソリ、ソリ、ソリ……
やがて とうとう カラを やぶって、
ちいさな ようちゅうが すがたを あらわす。
前半のこんなくだりから、「あの物語」を想像できる読者は、たぶんいないだろう。その驚きが、この本の最初の要(かなめ)となる。
あなたがもし「面白い物語が読みたい」と心から願っているなら、この文章はここらで読むのを一旦止めて、迷わず本書を手に取ってもらったほうがいい。五十嵐大介作品のクオリティに信頼を寄せるファンなら、なおさらだ。ただ、「子どもと一緒におうちで楽しく読める絵本を探している」という人には、もう少し説明が要るだろう。
といっても難しい内容ではまったくない。絵は美しく情感に溢れ、物語は分かりやすく切ない余韻を残す、胸を張って万人にお勧めできる1冊である。ただ、手に取る前に「『かぐや姫』のお話って知ってる?」と子どもに訊いてみることは必要かもしれない。昨今「誰もが知る物語」というフレーズも、大人相手でさえ当てにならなくなってきているので、さりげなく気取られない程度に……。
もちろん、最初に述べたような「驚き」を体験したあとでも、本書は繰り返し味わえる深みのある物語を備えている。「こういう面白さもあるんだ」という発見を通して、親御さんや先生ともども感受性の扉がさらに広がることも期待できよう。
作者の富安陽子は、日本に古くから伝わる昔話や民間伝承を着想源として、ファンタジックな物語世界を数多く紡(つむ)いできた児童文学作家。彼女の作品では、鬼や妖怪、山姥や山神様といった存在が、現実世界と同じ地平線上に登場する。たとえば人間とキツネの血をひいた現代の家族を描いた人気作「シノダ!」シリーズは、大阪・和泉地方に伝わる「信田妻」からアイデアを得たという。本作では、あの『かぐや姫』の物語が新たな視点で語り直される。
これまでも、市川崑監督がSFスペクタクルとして脚色した映画『竹取物語』(1987年)、高畑勲監督が女性のドラマとして見つめ直したアニメーション映画『かぐや姫の物語』(2013年)など、多くの作家たちがこの物語にイマジネーションを刺激されてきた。そのなかでも、この『月虫の姫ぎみ』は特に大胆なアレンジ=再解釈といえよう。そのインパクトを最大限に引き出しているのが、人気漫画家・五十嵐大介とのコラボレーションである。
本書の絵を担当した五十嵐大介は、国内のみならず海外でも圧倒的人気を誇る稀代の漫画作家だ。代表作『海獣の子供』では、人間と自然の関係を「個から宇宙」にまで広がる壮大なスケールで描き、条理を超えたファンタジックな領域にもダイナミックに踏み込んでいった(ちなみに個人的な思い出になるが、2019年公開のアニメーション映画版では、パンフレット制作に携わらせてもらった)。また、より等身大の目線で自然との共生を描いた『
リトル・フォレスト』『カボチャの冒険』などのハートウォーミングな作品もあれば、自然の摂理=「神の領域」に踏み込む人間の所業を不気味に描いた『
ディザインズ』などのアクションスリラー作品もある。読者が否応なく自然との関わり合いを見つめ直さずにいられなくなるような作風、温かさと冷徹さを同時に備えたような画風は、本作でも存分に発揮されている。
前半のディテール豊かな虫たちの描写は、まるで落ち葉の匂いや、虫たちの歩く音が伝わってくるかのようなリアリティだ。この感覚を現代の子どもたちが肌身で憶えてくれると嬉しいが、先に本書を通して目で触れるだけでもだいぶ違うだろう。このリアルな虫の生態描写が、後半の物語に効いてくる。
『かぐや姫』の物語に触れた日本人の多くが、その結末に不条理な後味を感じたはずだ。誰もかぐや姫の心の内が理解できないまま、彼女は月に帰ってしまう。だが、ひるがえって、周囲の人々がどれだけ彼女のことを理解しようとしただろうか? これは高畑勲監督の『かぐや姫の物語』でも問われたテーゼだが、本作ではより根本的かつ大胆な解釈により、傲慢な「人間上位の考え方」に鋭い刃を突きつけるような現代的寓話になっている。
「だって、虫だからね。」という秀逸なフレーズとともに、完全な断絶を示すような姫ぎみの一枚絵が、ゾクゾクするほど美しく、同時にユーモラスで素晴らしい。そして次の見開きでも、見事な空間描写と放り出した姫ぎみの素足が、無邪気な孤独を醸(かも)し出し、清々(すがすが)しいまでの相容れなさを示す。この孤独に共感する読者も少なくないかもしれない。
クライマックスに待ち受けるのは、おそらく『かぐや姫』を知る読者の大半の想像を超えるであろうビジュアルだ。ここでは文章だけを引用しておこう。
じゅうぶんに おおきく なった 月虫の姫ぎみは、
その よ、 ひかりの いとを はき、 まゆを つくる。
うつくしくて、 おおきくて、 とても がんじょうな まゆだ。
美しい蛾や蝶の姿を見て、まるで別世界から来たお姫様のようだと感じたことはないだろうか。本書はそんな感覚も思い出させてくれる。
地球も、宇宙も、人間というたった一種の生物のために存在するわけではない。混迷を極める世の中で、自分たちのことしか目に入らなくなりがちな人類に、目の覚めるような一撃を与えてくれる1冊である。幼いうちから、そういう視点を知ること、普通の大人が教えてくれないような気づきに出会うことは大事だし、きっと忘れがたい思い出になるのではないだろうか。
レビュアー
岡本敦史
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。