最近は「想像力の欠如」が、国の最高指導者の必要条件と捉えられているのだろうか、と思わされることが多い。国家のため、国民のため、大義のためなどと掲げ、民衆を巻き込んで自己正当化したうえで、一部の国のリーダーたちは次々と戦争の口火をきっている。その最前線で犠牲になる一般市民の生活や、国家を支えているはずの家族や個人の日常が破壊されることの恐ろしさを、彼らが想像できているとは到底思えない。
そして国民のほうも、声の大きいものに違和感をかき消され、極端な言説にそそのかされてしまうことはままある。いつしか致命的な想像力のなさまで、彼らから伝染してしまいがちだ。だからこそ、我々はその地に暮らす「普通の人々」の物語を知らなければならない……この絵本はパレスチナ・ガザ地区に暮らす、1人の想像力豊かな少女の物語である。
マラクは生まれ育ったガザの町で、優しい両親とともに暮らしている。イスラエルに占領された町は常に緊張状態にあり、砲撃や爆発音はもはや日常茶飯事だが、その状況に決して慣れることなどない。それでもマラクはいつものように学校へ行き、友達と遊び、ガザの美しい海へ両親と出かけることもある。
毎週金曜日には、マラクたち家族はおばあちゃんの家を訪ね、世界一おいしいマクルーバ(中東の炊き込みごはん)をごちそうになりながら、楽しい時間を過ごす。あるとき、おばあちゃんが飼っている白い鳥にエサをあげながら、マラクの口からこんな言葉がこぼれる。
「おばあちゃん、わたしたちって、この鳥みたいに、かごの中にとじこめられてるのよね」
おばあちゃんは寂しく笑いながら「夢の中なら、どこへでも飛んで行けるよ」と答える。その言葉はマラクの心にいつまでも残った。その後、イスラエル軍の攻撃が50日間も続いたとき、マラクは家族と自宅に閉じこもりながら、頭に浮かんだことを絵に描き始める。絵を描いているとき、彼女は恐怖を忘れることができた。
やがて攻撃が止み、町の景観はすっかり変わり果ててしまったが、マラクは再び学校に通えるようになる。彼女が避難生活中に描いた絵を学校に持っていくと、先生はその絵を褒めたたえ、校内で展覧会を開くことに。マラクの描いた絵の評判は、やがて海の向こうにも伝わり、ついには外国の展覧会への招待状が舞い込むのだが……。
たまたま占領下の町に生まれた少女の視点から描かれるのは、無辜の市民の慎ましくもかけがえのない日常の情景、それを破壊する戦争の無慈悲な冷酷さ。そして、過酷な現実を乗り切る想像力という「希望」である。それはマラクに世界へと向かう扉を授ける「鍵」ともなる。現実が彼女の願いを押しつぶす苦い展開もあるが、そこでも想像力が彼女を支える。どこまでも羽ばたく白い鳥は、まさしく自由と希望の象徴だ。
作者のマラク・マタールは、ガザ出身のアーティスト。2014年のイスラエル軍によるガザ攻撃で、実際に約50日間も家に閉じこもることを余儀なくされ、そのときに描いた作品はSNSを通じて世界に発信された。才能を認められた彼女は、世界各国で個展やグループ展を開催。トルコ・イスタンブールのアイディン大学で学んだのち、現在は英国ロンドンを拠点に活動を続けている。
本書では全編にわたり、あえて幼さと、それゆえの不器用さを再現した筆致と彩色で、少女の純真無垢な内面と感受性の豊かさが表現されている。その手法は、主人公=作者自身の成長を示すようなラストカットの鮮烈なタッチの変貌を、より効果的に見せている。コンセプチュアルアートとしても秀逸な作品だ。
イスラエルにとってガザ地区の「完全奪取」は長年の悲願である。自国民以外の住民を聖地から排除するために、もはや手段を問わなくなってきていることは、この約1年間のガザ地区への執拗な総攻撃を見れば一目瞭然だろう。きっかけは2023年10月、パレスチナ・ガザ地区を実効支配する武装組織ハマスによるイスラエル地区急襲だったが、当初は人質救出を名目としていたはずの攻撃は、もはやその大義名分を失っているとしか思えない。だが、暴力の連鎖を暴力によって止めることは極めて難しい。イスラエルの市井の人々にも戦禍が及ぶことは避けられないだろう(……と書いているさなか、イランによるイスラエルへの大量ミサイル攻撃が報じられた)。
この作品は、ニュースでは映し出されることの少ないガザの日常と、そこに暮らす家族の肖像を、親しみやすく、時にファンタジックな描写で生き生きと伝えている(それは、いまやもう消えてしまった光景なのかもしれない)。ガザに生きる少女マラクの物語は、困難を乗り越える希望にも、過酷な状況を生き延びる術にもなりうる「想像力」の尊さを、世界中の子どもたちにわかるかたちで教えてくれる。そこには政治的・宗教的イデオロギーなどない。あるのは家族を思い、生まれ育った町を愛する少女のピュアな視線だけだ。
そして大人たちに対しても同様に、強いメッセージが投げかけられる。戦場の瓦礫の下に埋もれていく罪なき市民の嘆き、無垢なる幼子の奪われた未来に思いを馳せる、その想像力を失ってはならない。どこに住んでいようと、どれほど遠く離れていようと……。そんな基本的なイマジネーションこそが、いまの我々に欠落しがちな、しかし絶対的に必要な「能力」なのではないだろうか。こんな時代だからこそ、必要な1冊である。
レビュアー
岡本敦史
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。