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2025.10.11

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一夜で十人と愛を交わすべし──性の秘法に込められた中国文化の根本原理『古代中国の性生活』

オランダの外交官R・H・ファン・フーリック(1910~1967/ロバート・ファン・ヒューリックなどの表記もある)は、日本・中国・インド・マレーシア・レバノンなど、第2次大戦中を含めて世界各国に赴任した。そのなかで中国文化に興味を持ち、作家活動にも乗り出した彼は、のちに映画化もされた人気推理小説「ディー判事」シリーズの生みの親としても知られる。本書は彼が収集した膨大な資料をもとに執筆し、1961年に発表した中国性愛史研究の大著である(日本では、せりか書房より1988年に初刊行)。

原著は60年以上前に出版され、著者も訳者もすでにこの世にない。それでも本書はいまなお刺激に溢れ、多くの思索と学びと発見を読者にもたらす。

フーリックは序文で、本書の成立過程について述べているが、この時点ですでに面白い。曰く、1949年に日本の骨董屋で偶然見つけた明(ミン)代の性愛画冊を再版するにあたり、彼はその歴史的背景に関する「短い序文」を書き始めた。ところが、その内容を確かなものにするための参考文献が、あまりに不足している現実に直面する。これが著者の探求心に火を点け、10年以上かけてこの大作を完成させたのだった。
中国の参考文献類が何も語らないのは、清(シン)代満州人王朝(一六四四-一九一二)の間、中国人をとらえていた極度の上品ぶりが原因となっていることで証明される。清代に編纂された多くの膨大な学術資料の文庫の中に、人間活動の諸相で記述されないものはなかったが――性ばかりは例外であった。
(中略)
すると、中国自体ではすでに検閲者たちがかれらの仕事を徹底して行なったために、清の文献の中にはほとんど何も残されていないが、日本には性の事柄にかんする古い重要な中国の原典が保存されており、それは西暦七世紀という早い時期に日本に入ったものであることがわかってきた。これらの原典が指示する方向でさらに資料を求めることが必要となり、やがて私は古い中国の医師や道教徒の文献の中に、日本で保存されていた資料を裏づけ補う相当数の文章を突きとめることができた。
著者は古代中国における性愛文化の知られざる豊かさと広がりを、さまざまな資料にあたりながら丹念に掘り下げていく。そのボリューム、なんと600ページ超!

きわどいテーマを主題にしながら、同時にこれは貴重な文化史であり、思想史であり、何より独自の切り口で中国という国全体の歴史を捉えた重厚な歴史書でもある。もちろん、不埒(ふらち)な興味をもって本書に手を伸ばす読者もいることだろう。それはそれで結構。実際手に取るとあまりの分厚さに怯(ひる)むかもしれないが、「そういう期待」にもしっかり応える1冊であることは保証しよう。

何しろ内容が濃密かつ多岐にわたるので、一部分だけをかいつまんで紹介することの無意味さをこれほど感じる本もないが、たとえば著者が広く世に伝えたかったことのひとつが、古代中国のこんな思想だろう。
性交は二重のねらいを持つと考えられた。第一に、性的行為は婦人を首尾よく妊娠させて、家を継ぐ男子を生ませるべきものである。こうして人は宇宙の理法の中に定められた彼の役まわりを果たすとともに、先祖への聖なるつとめも果たした――あの世の死者の安寧は、地上にある子孫が欠かさず供養を続けることによって保証されるからである。第二に、性的行為は一方では女性の〈陰〉気を吸収することにより男性の生命力を強化することであるが、同時に女性もその潜在する陰の本性が目覚めることにより身体的利益を得るであろう。
女性には〈陰〉のパワー、男性には〈陽〉のパワーがそれぞれあり(ちなみにこれは、暗い/明るいといったイメージとはまったく関係ない)、そのぶつかり合いである性交には人間のエネルギーを高める効果や意義がある……といった独特のセックス観=生命観は、自慰行為や同性愛といったオルタナティブな選択肢にもそれぞれ影響する。基本的には禁止の立場をとりながらも、後世にはびこる厳格さや不自由さに比べると、意外とユルいところがまた興味深い。
男の手淫は禁じられている。精気(バイタルエッセンス)の完全な空費となるからである。特殊な状況が男に女の相手を与えないとき、また「活力を失った精液」〈白精〉すなわち長期間体内で活動してきた精液)が彼の組織を詰まらせる場合に限って、医学書は大目に見ている。
(中略)
女性の〈陰〉の供給量は際限がないと思われていて、女性の自慰行為は大目に見られた。しかし医書は「子宮の内裏」を損じがちな人工手段(たとえば張形〈オリスポス〉の過度の使用を戒める。女の同性愛に対しても同じ理由から寛容な態度がとられる。おおぜいの女たちが長期間つねに間近にくらすことを強いられていれば、女同士の同性愛は避け難いということも認められていた。
こうした独自の理論や懐の大きな解釈を、かの大国が紀元前の昔から示していたことに、西洋人である著者が衝撃を受けたであろうことは想像に難くない。セックスを「ひめごと」とする感覚はヨーロッパと似通っていても、その考え方は根本的に異なっていた。
ここで一つだけ強調しておきたい事実は、中国人が性行為を自然の理法の一つ、あらゆる男女の神聖な義務の遂行と考えたから、それが宗教上、道徳上の罪悪感と結びつけられることは絶対になかった。性行為が家庭内でひめやかに行なわれ、行儀作法や正しいふるまいなど後の儒教規範で縛られるようになったのは、何か人目に隠さねばならぬ恥ずかしいものと思われたからではなく、ちょうど祖先への供養や祈祷のような儀式を行なうのと同じで、神聖な行為であるがゆえに部外者のいるところでとり行なったり話題に上せたりしてはならないことだからであった。
一方で、中国には長年、一夫多妻制というしきたりがあった。本書を読むと、その生活様式もまた性生活の成熟に拍車をかけたのではないかと思えてくる。快楽的な理由ではなく、あくまで生活上の「必要」として。

前漢王朝時代には、すでに「絵入りの性の手引書」が市民の間で流通しており、それらの多くは「家長たちの指導のために企画された」ものだったという。そして、三国・六朝時代を扱った章でも、同じような内容が繰り返される。
中国では妻や妾は、制度法と慣習法の双方によって確立された一定の身分を有し個別の権利を付与されている。家長はそれらの権利を尊重する必要があり、性的に満足を与えたり経済的扶養を行なう義務だけでなく、個人的な愛情やそれぞれの好みや弱点についての配慮、婦人たちそれぞれの間の関係に対する気配りなどの、より微妙な分野にまでわたる多くの義務を、彼の一族婦人に対し果たさなくてはならない。家長がもしこれらの義務の一つを欠くならば、結果は大混乱である。そして、仲睦まじい一家を守ることにしくじれば、それは男の信望を失わせ、彼の経歴を過つことになる。
(中略)
私の考えるに、性の手引書が儒教徒と道教徒のいずれもを含む広い層から歓迎され続けてきた主要な理由は、それら愛の教則本が実際的な必要に応えたからである。それらの導きなしには、大家族の首長が神経衰弱に陥らずにそのおびただしい女家族を管理していくことは覚束なかったであろう。
中国の典型的な一夫多妻家庭における内部闘争劇を描いた、チャン・イーモウ監督の映画『紅夢』(1991年)を思い出すような内容である(ちなみに同作の舞台設定は1920年代だった)。著者の考えるような男性家長の献身は、やや理想に偏りすぎている感もある。現実にはもっと殺伐として、女性に対して抑圧的な家庭状況も多かったに違いない。

それでも、センシティブなテーマに対する女性の立場、女性の視点を平等に取り扱っているところは、本書の魅力である。下記は、著者が古い資料から抜き出してきた東周王朝時代の逸話。男性優位社会における女性の悲劇を浮き彫りにすると同時に、このころから「女性を踏みにじる身勝手な男を許してはならない」という社会通念が存在したことも示している。
前五七九年のこと、魯国のある役人が、晋から来た賓客の郤犨(げきしゅう)から妻を世話してくれと頼まれた。そこで役人は施孝叔という下級官吏の妻を無理やりとりあげて郤犨にめあわせた。妻は夫に向かって「鳥獣だとて軽々しく番(つが)いの仲をさくことはしません。あなたはどうなさる」と言った。施孝叔は「断わって殺されたり放逐されたりするのはごめんだ」と答えた。それで妻は郤犨とともに晋に行き、そこで彼との間に二人の子をなした。郤犨の没後、晋の人々は女を魯にいる前夫のもとに送りかえした。彼は黄河まで来て妻を出迎え、彼女と郤犨の間の二人の子をそこで溺死させた。妻は怒って「前にあなたは妻を護らず、連れ去られるがままにした。今あなたは別の男のみなしごに父としてのもてなしができず、二人を殺した。あなたがどうなってももう知らない!」と言い、二度と彼には会わぬと誓った​(後略)
さて、「性の手引書」にはどんなことが書かれていたのか? 本書には、気になるその中身もしっかり掲載されている。下記は、日本の医学書『医心方』にも引用されたという、7世紀ごろの書『洞玄子』の一部である。
深くまたは浅く、おそくまたはすばやく、真直にまたは斜めに突く、これらは決して一様でなく、それぞれに特徴がある。おそい突きは鉤(はり)にかかった鯉の動きの如くでなければならず、すばやい突きは風に向かってとぶ群鳥のおもむきがなくてはならぬ。さすこと引くこと、上下の或いは左から右への動き、休み休みに行ない、一気に続け、これらあらゆる動作はよろしく相互関係を持つべきである。時に応じそれらを適用することが大事であって、自分の都合からその一つの型だけに固執してはならない。
もはやひとつの文学作品のようだ。現代の読者も思わず「なるほど!」と声をあるような学びや見識を得られるのではないだろうか。同じく『洞玄子』にはこんなことも書いてある。
洞玄先生いわく、よく調べてみると、性的結合を完成する主要な体位は三十種のみである。些細な差異はあってもこの各種の形状動作は基本的に同じであり、あらゆる可能性を網羅している。ここにその形状を書き名称を記し、その特色を述べて配列する。もののわかった読者はその深く不思議な意義をさぐりあてられよ。
この続きはぜひ本書で確かめていただきたい。このように医学書に転載されるのも納得の記述もある一方、ほとんど数秘術のような“最適回数”や、迷信めいた“禁止事項”なども示されたりして、これまた興味深い。

その後も、隋から唐、宗から元(モンゴル)、そして明から清へと時代は激しく変転しながら、人々の営みは変わらずあり続けた。日本の江戸時代がそうだったように、エッセンシャルな文化や思想の変遷は、他文化にも影響を与える。著者は豊かさや華やかさすら帯びていく多彩な様相を掘り下げていくが、やがて反動もやってくる。著者の近代中国への無関心が、それを示しているかのようだ。

いま、わたしたちはどんな時代に生きているのか。この状況は「豊か」と言えるのか、あるいは何かが滅びたあとの「静けさ」のなかにいるのか。常に何かが変わり続けていく時代の理(ことわり)を改めて意識させる、そんな1冊でもある。

古代中国の性生活 先史から明代まで

著 : R・H・ファン・フーリック
訳 : 松平 いを子
解説 : 柿沼 陽平

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レビュアー

岡本敦史

ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。

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