手の届かない憧れをちゃんと諦めよう
*出版社の業務部=本作りの計算をしてくれる部署、ちなみにしおり紐をつけるのは坂口涼太郎の強い要望だったようだ。
著者は坂口涼太郎(本書ではお涼)。映画版『ちはやふる』のヒョロくん役で広く知られ、朝ドラに4作も出演している俳優であり、歌人、ダンサーとしても活躍している。個人的にはTVドラマ『ホスト相続しちゃいました』でのクールな黒服役も印象深いのだが、それより「おはようございます、デヴィッド・ボウイです」などと言って派手な衣装・メイクでゲスト出演するNHKの番組「あさイチ」が毎回強烈だ。「その勢いの着地点、見えてへんやろ!」と突っ込みたくなるほどの超ハイテンションで場を掻き乱すお涼、それを手のひらで転がす博多華丸・大吉、その混乱を楽しむ鈴木菜穂子アナの「あさイチ」の回は、いつも神回。本書は、そっちのお涼テンションで書かれたエッセイである。すこし長めに引用させていただく。
たとえば私の場合「主人公の後ろで赤ちゃんを抱いている」という三秒の出演シーンの為に三時間ロケバスに乗り、現場に到着して衣装に着替え、三十分かけてメイクをし、泣きじゃくる赤ちゃんを抱き「えらいねー元気だねー本番いくよー」とあやして「ホンバーン!」と助監督さんの声がかかれば赤ちゃんは「うぐっ」と表面張力ぎりぎりな感じで泣き止み、私の衣装が気になり触ってみたりして自分を抑制。「かわいいねー、俺ぐらいかわいいねー」とあやせば「キッ」と私を一瞥。そして、「カットーオッケー」の声を聞けば表面張力を解除して「うわーん!」。「ぷ、ぷろやな」と感嘆した数分が経てば「本日終了でーすお疲れ様でしたー」と見送られ、メイクを落とし、衣装を脱ぎ、またロケバスに揺られて三時間。「この三時間プラス三時間イコール六時間で何ができたやろう。ていうか、撮影したあの部屋、都内に似たような部屋あるくない? 都内で撮ればよくなかった? この移動、なに?」そんなことを思ってしまえば一巻の終わり。ロケバス蹴破りからの高速道路全力疾走です。俳優失格。向いておりません。
エッセイの話題も実に多彩だ。世の中に自分に似ている人が多すぎる(ex:織田信成、ひょっこりはん、ももかっぱちゃん、アメンホテプ四世ほか)話や、洗い物も片付けも大嫌いだけど料理が好きな話。カリカリボディーにキム・カーダシアンのお尻を付けるべくジムで鍛え上げたら、全身のバランスを崩した話。どれも最高に面白いのだが、そこにはお涼が提唱する「らめ活」という生き方が息づいている。
「あきらめる」とは「あきらかにする」こと。
(中略)
手の届かない憧れをちゃんと諦めて、工夫して生活していこう。私はこれを「あきらめ活動」略して「らめ活」と呼ぶことをここに宣言いたします。
世の中は「諦めなかった=続けた」と理解しているんだろうけれど、「諦めること」で自分の中で何かを明確にした上で「続ける」こともありますよね。「諦める=続けなかった」じゃないんじゃないかと。
※現代ビジネス「手の届かない憧れを諦める=らめ活」を実践する坂口涼太郎さんがたどりついた「幸せってなんだろう?」への答え
そして自分を「“諦めないこと”を諦めた人」じゃないかと語っている。これは、持たざるもののしたたかな生存戦略なのではないか?
モーニング娘。になりたくて
「坂口涼太郎はなぜメイクをしているんですか?」
私がなんでメイクをしているのかというと、「好きな色を塗る場所が顔にあって、めっちゃ楽しいから」というのがひとつの回答やと思います。
そしてもうひとつは、飽きてたんやと思う。自分の顔に。この顔面でいきていくことについての諸問題はだいぶ前に決着がついていて、もうこの顔については納得しているし、鏡を見ても、はい、そうですか、そうですね、という感じで顔との関係がマンネリ化してたんやと思う。
「あなたは自分の体を愛していないし、かといって嫌ってもいない。ただ、そこに存在しているだけ」
これは「ボディ・ニュートラル」という考え方を唱えた女優ジャミーラ・ジャミルの言葉だ。ボディ・ニュートラルとは、自分の体をポジティブに捉えて愛そうとする「ボディ・ポジティブ」に対して、「なんで無理に愛さなあかんの? 『しゃあない』で済ましたらあかんの? でも自分の体に価値がないとも思わへんし、恥とも思わへんで」という考え方だ。
最近、「自己肯定」という言葉に遭遇する機会が増えたなと感じるけれど、私は正直、自己の全てを肯定できなくてもいいんじゃないかなあ、とちょっと思う。ただ認めてあげたらいいんじゃないかなあ、と思う。肯定じゃなくて認識。
「あさイチ」の話に戻る。
お涼と並ぶ「あさイチ」の暴れん坊といえば、藤井隆である。
TVショーモデルの私のロールモデルはやっぱり藤井隆さんであり、幼い頃から藤井さんが血肉となりダウンロードされているので、隠しきれないイズムが滲み出てしまう。