トップレベルの歌舞伎役者は、仮に本名が全く違っても、「市川」「中村」「尾上(おのえ)」などを名乗らなければ格好がつかない。それと同じように、有力な武士の一部は名乗るべき“役名”を名乗っているに過ぎず、真の素性は雑多で混沌として、その正体が得体の知れない者だったり、卑姓の(血統的に貴さに欠ける)古代氏族だったりしたのではないか。新たな時代を切り拓いた有力武士は、実は貴人でも新興勢力でもなく、時代の終焉とともに退場を迫られつつあった古代卑姓氏族が、全身全霊の努力で生き残りを図り、首尾よく生まれ変わった姿だった――。それが本書で披露したい“深層”の歴史像である。
もともとは「古代地方卑姓氏族」と称されるような無名の氏族でも、その血筋の痕跡が「まるで犯罪現場の血痕や指紋を念入りに拭き取るように、系図から拭い去られた」例は数多くある、と著者は指摘する。いわゆる政略結婚や、養子・猶子(義理の子)になる者など、その手段はさまざまだが、なかには縁もゆかりもないのに勝手に有力氏族の血族を名乗る剛の者もいたという。
「斎藤」や「近藤」といった現在ではごく普通に見かけるポピュラーな名字も、かつては藤原氏という当時の最有力氏族と近縁であることをアピールする重要な意味を含んでいた。これらの「○藤」姓について、その人物や氏族の役職・居住地などを由来とみる従来の説に対し、著者は〈○氏と藤原氏の双方の血を引く〉ことを意味する“二姓合成説”をもって改めて掘り下げていく。「○藤」姓のみならず、こうした名前の成立過程を新たな視点から推理していく過程は非常にスリリングであり、著者の根気強いリサーチ力にも圧倒される。
秀郷流藤原氏の中核には、確かに藤原秀郷の男系の子孫がいた。しかし、中核から外れた周縁部では、佐藤・首藤(守藤)家のように、中世社会を生き残ろうとする種々雑多な人々が複雑に絡み合うネットワークを構築していた。それが“秀郷流藤原氏”の正体なのだった。
以上に見てきたように、院政が始まって院が恣意(しい)的に寵臣を取り立てるようになると、院の眼鏡に適(かな)った出自不明の少年が側近に成り上がって寵愛を誇った。そして、源・平・藤原などの貴姓が支配的な当時の氏族秩序に合わせて系譜を飾り立てるべく、院の命令で貴姓の人の猶子になって貴姓を仮冒し、真正の貴姓の人々に交じって(むしろ、彼らに勝る権勢を誇って)貴姓の人らしく振る舞う、という現象が普通になった。特に、白河院が創設した新たな側近集団「北面(の武士)」の主力は、藤原盛重・平為俊や源重時など、自分自身や家族がそのような来歴を持つ出自不明の人々ばかりだった。
この事例は、「藤原康則」などの堂々たる貴姓出身者らしい名乗りを、額面通り本物の藤原氏と簡単に信じてはならない、という教訓である。通常、こうした改姓では養猶子などの手続きを踏むが、〈大中臣安平→藤原康則〉という変身には、何らその形跡がない。当人が勝手に、好きな姓と諱(いみな)を名乗っただけなのだった。同じことは源氏や平氏でも起こっていたと考えるのが自然で、そのような偽の貴姓出身者が中世社会にどれほど素知らぬ顔をして紛れ込んでいたか、想像を絶するものがある。
大中臣安平は東大寺との間に根深い対立を抱え、しかも敵の東大寺は執念深く強力で、最後はそれに負けた。彼は間違いなく、東大寺と同等以上に強い庇護者を必要とした。彼が成立間もない鎌倉幕府に速やかに帰属したのは、幕府という後ろ盾を東大寺に対抗させるためとしか考えられない。その時、彼は大中臣安平という古代卑姓的な姓名を綺麗さっぱり捨て、「藤原康則」という姓名に着替えた。それは、東大寺という古代的な権門を捨て、幕府という中世ならではの権門に適応した彼の、〈自分が帯びる古代らしさを一掃し、中世社会の一員に生まれ変わろう〉という決意表明に見える。