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2025.06.13

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明治の世を熱狂させるも今や忘れ去られた「キワモノ歌舞伎」──五代目尾上菊五郎の時代

2025年5月、「八代目尾上菊五郎襲名披露/六代目尾上菊之助襲名披露」の公演が行われた。おめでたい雰囲気に満ちた歌舞伎座の1階ロビーでは、二つの彫刻が観客たちを出迎えた。九代目市川團十郎と、五代目尾上菊五郎の胸像である。

なぜ彼らがそこにいるのかといえば、この月の興行の別名に由来がある。すなわち「團菊祭(だんきくさい)五月大歌舞伎」。明治の世に活躍した二人の名優を称えるべく、昭和11年から始まった特別公演だ。ふだんは2階にある胸像も、この時期だけは1階ロビーで劇場を見守る。そして今回、過去の團菊祭と同じように、十三代目團十郎白猿と七代目菊五郎、八代目菊五郎が揃って舞台に出演し、盛大な襲名披露と相成った。

では、今でも偉業が語り継がれる五代目菊五郎とは、どんな役者だったのか。
五代目尾上(おのえ)菊五郎の人生は、若太夫(わかたゆう)市村九郎右衛門(くろえもん)として始まる。
江戸には町奉行に歌舞伎の興行を許可された劇場が三軒だけあった。中村座、市村座、森田座。これを称して江戸三座という。各座の興行権を有する者、つまり代表者にして総責任者を太夫元(たゆうもと)といい、その御曹子(おんぞうし)を若太夫という。
父は市村座の太夫元十二代目市村羽左衛門(うざえもん)、母は名優三代目尾上菊五郎の娘。まずは役者として申し分のない家柄に生まれ育った。
そうして8歳の時には、父から太夫元を譲られ、早くも「十三代目市村羽左衛門」を名乗ったという。とはいえこの襲名には事情があったそうで、本書で紹介された大胆な手法には、思わずにんまりしてしまった。その後、江戸も末期となった1862年、狂言作者の河竹黙阿弥による『弁天娘女男白浪』(べんてんむすめめおのしらなみ)、通称『弁天小僧』の初演で、五代目菊五郎の名前を襲名した。著者いわく、
時代物、世話物、舞踊と、なんでもこいの腕達者。クッキリと明るい芸風で、演技の呼吸、間のよさときたら天下一品だった。一方では役の性根(しょうね)に基づいた緻密で合理的な演技術を考案し、現在演じられている歌舞伎のお手本を作った一人でもある。
といった役者だった。くわえて、「新しい話題、ハイカラなものには目がなく、時折それを舞台に持ち込んでは観客の目を白黒させる」キワモノ王であったとも評している。では、「キワモノ」とは何を指すのか。
当時の歌舞伎では毎興行のように新作書き下ろし作品が上演された。つまり歌舞伎は「伝統芸能」ではなく、ほとんど唯一存在する「現代演劇」だったわけだ。劇場間ではシビアな客の奪い合いが演じられ、興行師も狂言作者も観客の気を惹(ひ)くのに躍起になった。手っ取り早く注目を浴びるには、巷で話題のニュースや流行の風物をふんだんに盛り込んで、人気の役者に演じさせることだ。明治の新時代のこととて、世間を騒がせる事件や珍奇な新風俗には事欠かない。こうして同時代の、皆の好奇心の的になるような題材をタネにできあがった演目を、キワモノと呼ぶ。
著者が「キワモノはキワモノであるがゆえにあっという間に見捨てられた」と記す通り、当時の演目で今も上演されるものは、なきに等しい。著者はそれも「キワモノの宿命」と語る一方、本書を通じて五代目が演じたキワモノ歌舞伎を追うことにより、当時の歌舞伎をめぐる状況だけでなく、明治という過渡期の時代と人々の熱気を丁寧に掘り起こしていく。

たとえばある芝居で、「裁判所」を描くことになった。現在の私たちと同じように当時の観客にとっても、日常的に関わる機会の少ない場所はイメージがおぼつかない。くわえて時代の変わり目、江戸と明治の裁判所では、制度も空間も様変わりしていた。そのため脚本家は、設定を「夢の中」として裁判所の描写をぼやかすこともあったが、「役作りにあたっていつも実地調査を行い、『本物そっくり』にこだわった」という五代目は、安易なやり方を否定した。
しかし持ち前の行動力がそんな不精は許さない。黙阿弥と大道具の長谷川勘兵衛を伴って、さっそく裁判所の傍聴席に陣取った。建物、室内の造作から囚人の出入り、尋問の様子までを一生懸命に記憶し、その通りに再現してみせた。
(中略)
拷問の代わりに法律、つまり言葉と論理で悪人を追及する裁判所は「開明の世の中」の象徴だった。
「裁判を傍聴する」ことは、今でこそ多少は知られた行為だが、おそらく当時は、さぞ珍しかったに違いない。「本物」にこだわった五代目によるキワモノ歌舞伎は、当時の観客たちに、知らなかった世界を伝えることで、自分たちが生きている時代をより実感させた。芝居小屋を後にした人たちが、どれほど興奮し、他人に話して回ったか──想像に難くない。

ちなみに本書は、2009年4月に白水社から刊行された『空飛ぶ五代目菊五郎 明治キワモノ歌舞伎』を改題し、文庫化したもの。日本芸能史を専門とする著者は、最初の刊行時、「お堅い学術書ではなくあくまでも一般向けの読み物にしたかった」との思いで執筆したそうだ。実際、歌舞伎を知らない方であっても、五代目菊五郎の魅力はもちろん、明治初期の独特の空気感をも存分に味わえるつくりとなっている。各章に散りばめられた写真や図版も、内容への理解を助けてくれる。こうした点も評価されてか、本書はその後「第31回サントリー学芸賞」を受賞した。専門書としてのクオリティーも確かといえよう。新たな菊五郎が誕生した今こそ、手に取ってほしい。

レビュアー

田中香織

元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。

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