浮世絵と19世紀ヨーロッパ
帽子をかぶりフロックコートを着けたしゃれた出で立ちの老人の背景に、何枚かの浮世絵が描かれています。モデルとなったタンギー氏は画商だったそうですから、ここは彼の店であり、壁に浮世絵が飾ってあるというような設定があるのかもしれません。
しかし、のちの調査によって、浮世絵はタンギー氏が所持していたものではなく、雑誌に掲載された絵を模写したものだということがわかっています。つまり、浮世絵はゴッホが「描きたいから描いた」ものだったのです。
浮世絵が19世紀後半の西洋に与えた影響にはたいへん大きなものがありました。
浮世絵は、江戸時代に江戸を中心として生まれた美術である。日本美術の歴史のなかでは比較的新しいが、近年、パスポートや千円札に葛飾北斎「冨岳三十六景」(51~53)がデザインされたように、いまや国内外で代表的な日本文化として認識されている。
その背景のひとつに、19世紀後半のヨーロッパにおける「ジャポニスム」の流行がある。この時、海を渡った作品が各国の美術館や図書館のコレクションとなり、また浮世絵は大半が版画であるから、同じ作品が世界各地で鑑賞されるようになったのだ。
そしてこの、版画を主として展開した点は、浮世絵と他の絵画ジャンルとの決定的な違いでもあった。
しかし、ゴッホのそれはたぶん、まったくブームに寄与してはいません。
ゴッホは今でこそ芸術家の代名詞みたいに言われていますが、生前に売れた絵は1枚のみでした。絵で生計を立てる人をプロと呼ぶならば、ゴッホは生涯、プロではなかったのです。
そんな人が自作の背景に浮世絵をあしらったからといって、ジャポニスムの流行に寄与したとはとうてい言えません。早い話がシロウトが手すさびで描いた絵です。重要視する人は絶無だったでしょう。
しかし、これだけは言えます。
ジャポニスムは、一過性の流行ではかたづけられない重みを持っていた。先進的でトガっていた若き青年画家さえ魅了するものだった。浮世絵は、それまでの西洋絵画にはない、革新的でまったく新しい技法で描かれていた。
若きゴッホを夢中にさせたのは何だったのだろう?
本書は、それを追求する最高の助けとなってくれるものです。
浮世絵は版画ばかりではない
しかし、顔だけは知っていました。錦絵で見たというのです。本書にも説明されているとおり、錦絵とは色つきの浮世絵のことです。
錦絵って絵だろ、絵を見て恋していいのかよ、とツッコミを入れたくなる気持ちはよくわかります。その不自然さを補うためか、庶民は女性を花魁道中(パレードのようなもの)で見た、と語るものも多くあります。しかしその場合にも、たいがい道中と錦絵がセットで語られるようです。道中で見て恋をするというのも、相当に不自然だからでしょう。
この例でもわかるとおり、浮世絵は役者や美人など、アイドルを描いたブロマイドでした。世相を切るニュースペーパーの役割も果たしていましたし、歌舞伎(演劇)や小説など、ドラマのクライマックスを描いたものでもありました。春画もたくさん描かれました。有名な葛飾北斎の「冨嶽三十六景」は、一種の観光案内として描かれたものです(名所絵)。庶民が求める題材は、ほとんどすべて絵にして販売されていました。
本書には、浮世絵は通常どのぐらいの大きさだったのか、どのぐらいの価格で取引されていたのかが語られています。基本的情報ながら、じつはあまり語られない情報であり、思わず「へー」と唸(うな)ってしまいました。
浮世絵はほとんどが版画だったため、大量生産に適していました。西洋絵画はワン&オンリーが基本ですから、西洋ではあまり見られない表現形態だったといっていいでしょう。
こうも言えるかもしれません。浮世絵は「ポップ」、すなわち映画や写真、音楽や文学など、複製と大量生産を基本とした二十世紀芸術を先取りしていたのだと。
しかし、本書は「浮世絵は版画である」というにわか知識をもとにわかったようなことを語る青二才発言も、きっちり否定してくれます。
「浮世」という言葉はもともと「憂き世」と書き、つらい現世という意味でしたが、江戸時代になると「浮世」となり、浮かれて暮らす享楽的な現世、あるいは当世風(現代風)などの意味に変化します。つまり、浮世絵とは当時の最新の流行を描いた絵ということになります。制作された作品の大部分は版画ですが、絵師が注文に応じて描いた一点物の肉筆画も浮世絵と呼びます。
浮世絵ってすげえんだよ!
菱川師宣と歌川広重、どちらも有名な浮世絵画家ですから、自分はほぼ同時代に活躍した人だと思い込んでいました。ところが、本書を見れば二者の活動期間には百年以上の開きがあることがわかります。浮世絵を時代ごとに整理して提示しているのも、本書の親切な点のひとつです。
でもね、この本がホントにすげえのはそこじゃねえんだよ。
これ、見てくれよ!
ゴッホもすごいし、ピカソもすごい。でも北斎もとんでもない!
なにしろ老いて「画狂老人卍」って改名する人だ。並じゃねえんだ。
本書は浮世絵の数々を、カラーで見せてくれます。さらに、「すげえ」ところはしっかり拡大して見せてくれます。上の北斎の絵も、一部を拡大した図版をあわせて掲載しています。
断言していいでしょう。
本書の著者や編集したスタッフがもっとも訴えたいことはただひとつです。
「浮世絵ってすげえんだ!」ってこと。
それをより多くの人に知ってもらいたい。
本書ではそれが熱意となり、ていねいさと親切さとなって表れています。
浮世絵のたいへん優れたガイドブックであり、根底に深い愛情とたぎる熱さをたたえた好著であります。