都市開発の手段、都市計画の導入としての「花街」
馬場孤蝶が樋口一葉の『にごりえ』によせて「新開の町」に発生する「銘酒屋」を「パイオニアー」と位置づけ、また永井荷風が「新開の町村に芸者屋町を許可するは土地繁昌を促すがためといへり」(「桑中喜語」)と指摘したように、明治期以降、一般に土地の「発展策」と認められたのが花街である。第四章で参照した文章をもう一度引くならば、「花街は常に土地発展のお乳母役を勤むること歴史の徴するところで、都市政策としての理想とされてゐ」たのだ(『今里新地十年史』)。風紀を問われた花街が取り締まりによって廃止された例は皆無に等しく、いずれも移転を命じられ指定された土地に隔離されながらも繁盛したことは、その証左となる。
その店舗には、関東大震災後に建てられた数寄屋造りの待合があった。さらには店内も屋久杉を使った天井や、部屋ごとに材木を変えた床柱など、細部に至るまで職人の技が注ぎ込まれた造りになっていた。日本橋のその一角の街並みや、この料亭の内装をふと見まわすだけで、花街の繁栄とともに、さまざまな文化がその地に根付いていったことが感じられた。
本書『花街 遊興空間の近代』を読みながら、そんな私自身の体験を思い出してしまった。
『花街 遊興空間の近代』著者の加藤政洋氏は、都市研究を専門にしている地理学者である。
本書は2005年に出版された『花街 異空間の都市史』を大幅に改定・再編集したものだ。
花街が「都市形成の諸局面において〈まち〉の発展を促す動因として利用された産業=場所である」ということを、日本各地にかつては五百ヵ所以上もあったという全国の花街の歴史を辿りながら紹介している。
いわば、花街の歴史を「都市開発」という特定の視点からひも解いている一冊と言える。
第一章「花街の立地と形態」では、遊郭と花街の違いから始まり、全国的にその多くが既成市街地の近郊に配置されていたという、近代遊郭および花街の地図上の立地などについて紹介。
その後の第二章「城下町都市の空隙、市街地化のフロンティア」が、本書の核となる内容と言える。明治維新を経て主を失った武家屋敷や藩主の別荘が土地再開発のターゲットとされた際に、「花街」がいかなる役割を果たしたのかについて「和歌山城丸の内の再開発」「鳥取藩主の庭園《衆楽園》」「富山藩主の別邸《千歳御殿》」の3つの例を出して解説している。
さらには樋口一葉の代表作の一つ『にごりえ』やその関連書籍、舞台芸術家・妹尾河童による大ヒットした自伝的小説『少年H』などにある描写を入り口にして、「花街」が持つ「都市開発におけるパイオニア」としての役割をひも解いている。
人の世の「業」であり「営み」そのものでもある「花街」の存在
さらには、寺社仏閣の門前町や観光名所における遊興地のような形で自然発生的に形作られていた江戸時代以前の「花街」と、明治維新後の近代化や戦後の土地再開発に絡んで、地元の有力者や公権力など、さまざまな人々の思惑と欲望が交錯する形で開発された近代的な「花街」の形成について、多くの例示とともに解説されている。近代における、花街の認可や移転に伴う疑獄事件の存在も、そこには取り上げられていた。
問題は、その過程で運動資金が各政党関係者に流れたことにある。のちに明らかになるところによれば、憲政会の長老である箕浦勝人には「第一次若槻礼次郎内閣時に若槻首相から松島の移転を了解する旨の言明を得るためにその資金として五万円」が、また高見之通代議士には「移転に際して政友本党が妨害しないという了解を政友本党総裁の床次竹二郎から得るために三万円」が、さらに当時の大阪府知事中川望と同窓の政友会幹部岩崎勲には「移転に際して政友会は反対しないという党議をまとめる運動資金として四十万円」が受け渡された。
こうした事実が露呈したことで、先ほどの土地会社の代表三名をふくむ関係者が起訴された。予審のなかで箕浦が内閣総理大臣若槻礼次郎を偽証罪で告訴したことから、内閣までをも巻き込んだ一大スキャンダルに発展する。
「花街」や「遊郭」とイコールで結ばれるものではないが、一説によると「売春婦」は、人類史上最古の職業ともいわれているらしい。明治の初期から政治家たちの密談の舞台は、花街の高級料亭と相場が決まっていた。花街通いで有名な石川啄木や、田山花袋の『田舎教師』の例を出すまでもなく、花街や遊郭が近代文学に与えた影響も、枚挙にいとまがない。
本書に登場する花街の開発に関わった地元の有力者や権力者たちの、花街関連の利権に対する執着は、事の善悪は別として極めて俗っぽく、この上なく人間臭い。
「悪所」と呼ばれることもある「花街」や「遊郭」そのものが、人間の欲望や業が表出した存在だからこそ、その形成過程においてもさまざまな立場の人間の欲望や業があらわになっている、と考えると、思いのほか納得してしまった。