……そんな巨大な謎に、科学的視点から迫っていく壮大なサイエンスミステリーが本書である。著者は『歌うカタツムリ 進化とらせんの物語』(岩波科学ライブラリー)や『ダーウィンの呪い』(講談社現代新書)などの著書がある、進化生物学と生態学を専門とする理学博士。350ページにも届くなかなかのボリュームだが、硬軟取り混ぜた巧みな筆致で、ページを繰る手を止まらなくさせる1冊である。
探し求める「進化のパーツ」は、大進化と小進化、一般性と特殊性、そしてそれらの空隙を埋める色々な時代、長さ、大きさの進化の断片だ。旅の最後に、集めた「進化のパーツ」で、迷宮の隅に潜み進化を調律している不思議な存在にまつわる謎を解こうと思う。
サメを横目に、生温(なまぬる)い泥水の中を進む。不気味な浅瀬をなんとか泳ぎきり、岸に辿り着いた。真っ赤な泥の上を這うように上陸する。そこで私が最初に目にした物は、腐乱したヤギの死体だった。足元を見ると、ドッグフードのような無数のヤギの糞が散らばっている。集積した糞が、赤い浜辺にいくつもの紫色の帯を作っていた。
すると教員は、初対面の私を部屋に迎え入れ、椅子に座るよう勧めた。そしてテーブルを挟んで私の正面に座り、ふうとタバコの煙を吹きつつ横目で私を見ると、さっそく説明を始めた。
「うちでは動物を対象に、生物学としての古生物学をやっている」
は? 動物? 古生物?
卓上には貝殻や化石がいくつも並んでいる。棚に目をやると、置かれているのは海産動物の液浸標本だった。そこで私は初めて部屋を間違えたことに気が付いた。うっかり化石を研究する古生物学の研究室に来てしまったのだ。誰この人。
何より、研究対象への愛と情熱に溢れた文章が快い。著者は大学院生となって間もなく、小笠原諸島で未知の陸貝(カタツムリ)の化石群を発見する。この場面でも、当時の感動と興奮が生き生きと伝わってくる。添えられた写真にうつるモンスターマイマイの容貌も確かにすごい。
この大きさと重量感。平たく巻いた貝の化石――アンモナイトだ。アンモナイトの化石を発掘してしまったのだ。
いやまて、アンモナイトは中生代の海洋生物だ。それがなぜこんなところに。
怪訝(けげん)に思いつつ、その円盤状の化石を裏返してみた。大量の粘土が付着している。こびりついている粘土を慎重に取り除く。すると、ぽっかりと大きな唇のような形の殻口が現れた。口の縁が異様に分厚く広がっている。その付け根に、広い臍孔が見える。
カタツムリだ。それも特大サイズの、化け物のようなカタツムリだ。
それまでの人生で指折りの度肝を抜かれた瞬間であった。
ではなぜヒラマキガイ科の多くは、殻の形と系統が一致しないのだろう。実はこれらは、遺伝的に同一の個体でも、異なる生育環境で育つと、異なる形の殻を作るケースが多いのである。これは「表現型可塑性」と呼ばれる現象である。カワコザラもその例だ。形が容易に変わるので外来種と在来種の区別が難しい一方、育ちが違うだけの個体を別種と勘違いしてしまう。
ふとライトで照らされた眼前の樹木の幹に、大きな黒い物の影が浮かび上がった。一瞬、気味の悪さにぞっとしたが、すぐにそれが巨大な昆虫だとわかった。大きなバッタのようだが翅(はね)のないスズメバチのようでもある。頭部が異様に大きく、太く長い大顎があってクワガタムシのようにも見える。なんだこれは?
後肢に長い棘があり、危ないので容器を被せて捕まえた。ヤバすぎる虫である。遭難の可能性を忘れるほどの異形だ。
(中略)
何食わぬ顔で捕獲した奇怪な昆虫を見せると、「ウェタだ」という。樹上性の仲間で、オークランド・ツリー・ウェタという種類の雄であった。
知に流派は不要。知を受け継ぎ、改良と創造を加え、着想と挑戦と成果を楽しむ相手は、あらゆる世界に開かれていると思う。
しかしそれにもかかわらず、学生はあなたが業績を挙げるための使い捨てのソルジャーではないという意識、それから次世代に知を伝え、次世代がその上に自分の知らない新しい何かを築くことに、自分が何らかの喜びを見出す――この教育と研究の伝統と、その歴史の継承を大切にする考えは、グールドの主義を全面的に支持したいと思う。
“誰もやってないから”以上に素敵な動機などなかったのである。それに気づいて実行してみせるのが才能なのだ。
大切なのは研究の中身。「通すこと」「取得すること」を研究の目的にすることくらいつまらない話はない。私は、他者が決めた既存の評価基準でしか、自分の研究や仕事の意義を語れない人とは上手くいかないが、そんなこと知ったことかとばかり、人がやらないことを着想してチャレンジする人を無条件に支持するし尊敬する。楽しそうだし。







